交換、はじめました。


 俺の枕元には、三個の目覚まし時計が散乱している。一個目は、起床予定時間にリンリン鳴るやつ。二個目は、起床予定時間から十分後に朝ですにゃー!と元気良くにゃんにゃかするやつ。三個目は、起床予定時間から三十分後に空を飛ぶやつ。いや、マジで。時計のてっぺんにプロペラがついてて、時間になると飛ぶわけよ。ぶーん、ばひゅーんって。部屋中どこへでも。それを見つけ出してセットし直さないとアラームが止まらないっていう仕様。モノを開発する人間の思考回路ってのはどうなってんだかね。普通飛ばすかよ。あと、あれ。アラーム止めないとセットしたお札がシュレッダーに吸い込まれていって裁断されてくってやつも。ある意味尊敬するわ。そしてそんな人間の思考回路により生み出され、毎日規則正しく活動している健気な目覚ましさんの弛まぬ努力には悪いけれど、俺は自分の体温を吸収してぬっくぬくのベッドの中で、あー今日も随分軽快に飛んでったなあ、ってご退場願えない眠気と心地良いランデブーが現在進行形。購入時はあれだけうるさかったアラーム音も、一度耳慣れてしまえば妨げにはなりやしない。ジリリリリリリ。意識はしながらも、目は縫い合わせたように閉じたまま。
俺がプロペラを探さなくたって目覚ましはちゃんと止まる。
「―――高尾、いい加減に起きろ」
ほら、な。本日も絶好調にご機嫌斜めな真ちゃんが、ノックもせずにずかずかと寝室に入ってきた。背中のあたりでぐしゃぐしゃに裾が捩れた寝巻きの俺とは違って、完璧に整った身支度。寝癖ひとつない髪の毛、清潔感のあるコットンシャツとスラックス、俺がプレゼントした胸元とリボンの先端に肉球マークが並ぶ紺色のエプロン。猫嫌いの真ちゃんだけど、最高に似合ってると思う。ぶはっ。いいね、いいねー。
「……あと、じゅっぷん」
「駄目だ」
「あと、ごふん」
「駄目だ」
「えー」
「高尾」
「………」
「……今日は、アレ、なのだよ」
「えっ、起きる!起きた!」
いつも以上に駄々を捏ねた俺の相手をするのが面倒になったのか、緑間はあっさりと魔法の呪文を唱えた。寝起きの悪い高尾を一瞬にして魅惑の布団から飛び出させる、魔法の呪文。人事を尽くすエース様は、MPが足りません、なんて事態にはならない。むしろ雑魚でも最強装備レベルカンストのアイテム各々MAX持って闘うタイプ。
「もう、トースト焼いた?」
「これからだ」
おうおう、毎度のことながら、そんな呆れた視線向けて溜め息つくなっての。残念ながら、俺は真ちゃんの仲間側だから消えてやれないぜ。死亡フラグなんてへし折って、感動のエンディングへ一直線だかんな。いそいそと毛布を身体から剥ぎ取り、靴下を履いて上着を羽織る。どちらもカシミヤ素材のこれは、二十歳を超えてからどうにも冷え症気味の俺のために、やれ仕方ないだのやれ手間を掛けさせるなだのお決まりのテンプレートをくどくど連ねながら緑間がプレゼントしてくれたもの。秋から春先にかけて、絶対にこれは手離せない。
「真ちゃん、はやくー」
「あんずの朝ご飯が先なのだよ」
「それは分かってるっての。俺、昨日新しいおやつ買ってきたんだよ。じゃーん、チーズサンドのビーフジャーキー!好きそうだよなー、あんず」
「……あまり甘やかすな」
「なに云ってんだよ。あの箱にあんずの新しいおもちゃ増えてんの知ってんだぞ」
寝室の窓際にあるゲージに掛けた布を捲りながら、おはよーと声を掛けた。即座にゲージの天井から鎖でぶら下がるハンモックからひょっこりと顔を出した愛らしい鼻先が、くんくんとひくつく。
「あいあい、腹減ったな」
俺の匂いを認識して擦り寄る小さな身体をそっと撫でてやり、ゲージの横にある棚から取り出した餌を口元まで運んでやった。昔から変わらない大好物である、小動物専用の野菜ビスケット。
俺と真ちゃんが先程からあんずと呼んでいるのは、近くに出来たペットショップを冷やかしに行った際、小さな小屋の中で動き回る姿にふたり揃って一目惚れをしてしまい、その日の内に誘拐してきたフクロモモンガのことだ。いやね、日頃仏頂面の真ちゃんの顔が緩むのも仕方ないって。もー、マジで天使。ただの天使。零れ落ちるんじゃないかってくらいまんまるおっきな目と、どう機能してるのか分からない謎の長いしっぽと、ふわふわぷにぷにの手触り。毎日の癒しだ。あ、誘拐してきたっても、あれだぞ?そこは冗談だからな?ちゃんと真ちゃんの財布から諭吉さんが旅立たれたっての。南無南無。正確にいくら掛かったかは忘れたけど、店員さんが教えてくれた必需品や消耗品を片っ端からカゴに放り込む真ちゃんを止めないで他人事のように面白がってたら、レジでの金額が跳ね上がってて目を見開いた記憶がある。まあ、とりあえず掛かったお金は後日割り勘して、今後の費用に関してはよっぽど高いものじゃなければ、自腹ってことになった。今のところ、もっぱらおやつが俺で、おもちゃを買ってあげるのが真ちゃん。自然と役割分担が決まっている。これまたあんずが我が侭な上に、意外と鼻の利くグルメでさ。食事担当の俺はいつもいつも悩まされてる。ミックスベジタブル(※ニンジン抜き)は、必ず食べてくれるけど、それ以外は基本的には旬ものしか食べないし、すぐ飽きる。ナッツやビスケットの類いは鮮度が落ちたらまず口にしない。果物も比較的駄目。栄養を補うためのビタミン剤やシロップはだいすき。全体的に好き嫌いが結構激しくて頭抱える。ほんと、誰に似たんだか。誰かに似てんだよなー。
「……真ちゃん?」
ああ、そうか。真ちゃんか。真ちゃんも好き嫌い多いもんなー。これは、あんずのためにも叱っておかないと。駄目ですよ、パパー。はぁと。なーんて。
俺は朝ご飯をもらい大満足でハンモックに潜り込んでいくあんずの後ろ姿を見守った後、すくっと立ち上がってリビングに移動する。ふんわりふわふわ、空腹を刺激する良い匂い。
「絶対さ、あんずの我が侭は、真ちゃん似だよねー」
「いきなりどうした?」
「昨日の餌皿に、苺残ってた」
「ああ」
「真ちゃんと一緒で、やっぱり甘酸っぱいやつは駄目っぽい。美味いのに」
冷蔵庫で冷やした練乳をひたひたになるまでかけて食べる苺の美味しさを思い出し、危うく口から垂れそうになった唾液を拭う。昨日ふたりでワックスを掛けたばかりのフローリングを汚したら、真ちゃんになにを云われるか。ただでさえ昨日は掃除の仕方が雑だと散々怒られたのだ。別にそこまで手抜きしてるわけじゃねぇけど、凝り性故に掃除が得意な真ちゃんに敵うわけがなかった。洗濯にしても、適当に洗濯機に突っ込んでぐるぐるーってさせようとすると、すかさず小言が飛んでくる。色移り、手洗い機能、ドライクリーニング。服を買うときに、洗濯表示タグを確認するようになった俺の成長を誰か褒めて欲しい。一年ぐらい前、褒めて真ちゃんと意気込んだら、おでこにチョップ食らった。解せぬ。
ついでにって云うのも変だけど、勿論掃除洗濯だけじゃなく、真ちゃんは文句のつけどころがない程の料理上手だ。あれ。ほら、あれ。昼ドラに夢中なだらだら奥様も、真っ青の主婦っぷり。やったね。あれやこれやと世話をやかれてると、あれ?俺嫁がれた?ってふと真顔になったりする。大歓迎過ぎて。
俺は、あんずの餌用の野菜や果物を細かく刻むのですら、満足に包丁を扱えやしない。不揃いの野菜たち。昔のドラマタイトルか。
そういう背景もあり、遠い大学に通うにあたってのひとり暮らしは、めちゃくちゃ親に反対された。これから輝く未来に歩いていこうとする息子に、ゴミ屋敷での栄養失調を心配する親ってどうよ。うん、愛されてるな。ちょっと泣いたけど。そんな両親に真ちゃんがルームシェアを提案したときは、本当にびっくりした。緑間くんが一緒ならと、万々歳で送り出してくれた俺の親にも。十八年育てた実の息子より、義理の息子の方の信用が厚い。いや、泣いてないから。うっせーな、どこかの誰かみたいに轢くぞ。
ま、うん。周りの思惑通りってのは癪だけど、ふたりと一匹で仲良くやってますよ。今年で何年目だっけ、真ちゃん。
「好き嫌いは確かに俺かもしれんが、我が侭で飽き性なところは、お前に似ているな」
「悪かったな、中身が子供で。ま、子は親に似るっていうから仕方ないか」
「そうだ。仕方ないのだよ」
てきぱきと朝食の準備を整えた真ちゃんが、俺の真向かいの椅子に座る。てかこのオシャレなランチョンマットどうしたの。あんずの毛並みには劣るけど、手触り抜群なんだけど。俺の記憶が正しいなら、昨日までなかったよな。この新しいもの好きめ。
「冷めない内に食べろ」
「ん、さんきゅ」
きちんと手を合わせ、いただきますと挨拶しないと、この家では食事を許されない。同棲するにあたり、何十個と決めたルールのひとつ。いただきますとごちそうさまは、きちんと。無理なく残さず食べましょう。
熱々の半熟目玉焼きをのっけてデミグラスソースを掛けたトーストは、俺のいちばんのお気に入り。でも面倒だからと、たまにしか作ってもらえない。これが朝食の日は、今日みたいに飛び起きる。
「あー、美味い」
「当然なのだよ」
相変わらず自信たっぷりのエース様ですこと。はいはい、そうだねそうだね。ん?え?あ、嘘うそ。めちゃくちゃ美味しいです、愛してるぜ、エース様。
結局トーストを二枚、サラダ、そしてコーンスープを飲み終えてひと息つく。
ぱちん、ごちそうさまでした。
「やっぱ、俺も料理覚えるかなー」
「……どうかしたのか」
「いや、なんとなく」
料理が出来ない代わりに、後片付けは俺の仕事。ルームシェアという名義で誤魔化してはいるけれど、恋人と住んでいるのだから、れっきとした同棲だ。なにより緑間とは対等でいたいし、家事における不足分は積極的に補うことにしている。でも、俺が手を出せばかえって仕事を増やしてしまうことになりかねないため、最近どうにも不足していく一方な気がしていた。
「そんなに気になるならば、ベッドの上で励んでもらってもいっこうに構わないが?」
「緑間真太郎さん?ナチュラルに下ネタ発言はやめてくださるかしら?……しっかも、顔色ひとつ変えてないし。俺だけ顔熱いとか理不尽!」
「これしきのことで羞恥心を覚えるお前がどうなっているのだよ。付き合いたてならともかく、昨日だってあれだけはやくいれろと」
「真ちゃん、ちょっと黙ってくれないかなあ!!」
「あまり大声で叫ぶと、あんずが起きるぞ」
「……ったく、その優しさ半分でいいから、俺にもちょーだいよ」
引き寄せた右手に、がぶりと噛みつく。
俺の唇に残っていたのか、真ちゃんの指が汚れていたのかは知らないが、だいすきなデミグラスソースの味。喉に落ちていくのをじっくりと味わう。あー、うん。なんかまた食べたくなってきちゃったよね。ほら、俺、我が侭だから仕方ないよね。うん、うん。仕方ない。ちらりと、欲求色の視線を向ける。
「真ちゃーん」
「……ん」
「いただきます?」
真ちゃんは楽しそうに、これ以上食べたらお腹を壊すのだよと笑った。



※※※



―――きゃんっ、きゃんっ。


 突如、夜中の静寂を打ち破った鳴き声に、安眠を貪っていた脳を揺さぶり起こされ、俺は顔を顰めながらもぞもぞと寝返りをうつ。閉じた視界で、窓側の気配を探った。ベッドのスプリングが軋むと同時に、うっ、と呻いて鈍痛をやり過ごす俺の腰を、背後から伸びてきた手のひらが温めるように優しく摩ってくれる。重たい身体を引き摺って、その優しさにぐりぐりと甘えた。ぎゅうっと抱きしめられ、額に落とされる低温の唇に絆されてしまいそう。だいたい俺がこうなってるのが誰のせいだっつーの。誘ったのは俺だけどさ、盛りのついた猫じゃあるまいし、年齢的にも限度ってもんがあるだろ。もういやだ、疲れた死ぬとベッドから逃げようとする俺を捕まえて、好き放題貪ってくれたこのむっつりスケベが。全然むっつりじゃねぇけど。欲望全開だけど。知ってるか?むっつりスケベからむっつりとったら、ただの変態だぜ。
「俺が見てくるからお前は寝ていろ」
「……んー」
あらら、マジでやっさしいの。さすがに、恋人を手加減なしに抱いて無茶させた自覚はあるのか。普段はあんずが夜鳴きしても滅多に宥めに行かないくせに。つーか、真ちゃんが様子を見に行っても鳴き止まない気がするけどなあ。下手をすれば緑間以上にややこしい性格をしているあんずは、自分に触れてくる相手が誰なのかきちんと判断して、それ相応の態度を返すから。
「とりあえず、頑張って……」
「ふ、任せるのだよ」
「……ビタミン剤なら、あげていいよー」
「ああ」
分かってはいても、ふっと離れていく体温が寂しい。すかさず潜り込んできた冷気を振り払うように、毛布にぐるぐると包まる。
―――きゃんっきゃんっ。
あーあ、甘えくさった声出しちゃって。これはボクを撫でてくださいの声だな。甘ったれで寂しがり屋。気配は近くにばっちりあるのに、いっこうに構ってくれない俺と真ちゃんに焦れて寂しくなってしまったのだろう。あんずを完全放置して緑間との性行為に溺れてしまったツケだ。
(……さっきまで、ないてたのは俺だし)
泣いて鳴いて、覆い被さっていた真ちゃんに苦笑いされた。大丈夫かと汗で貼りついた俺の前髪を梳き、頬を撫でた手のひらの熱を思い出して、身体がざわめく。盛りのついた猫はお互い様か。ふるふると首を振り、緑間の言動を追うことに集中する。
どうしたのだよ、と。優しく小屋の中のあんずを気遣う声音に、どきんと心臓が跳ねた。おっきな身体を縮めて、たぶん指に縋りついている小さな手に微笑んでいる。眼差しの柔らかな横顔。くっそ、デレデレじゃん。殆ど一目惚れに近かったから仕方ない。真ちゃんはあんずに―――俺は、緑間真太郎に。
仕方ない、仕方ないのだよ。
「……もう満足したのか」
予想外に、あんずはあっさり鳴き止んで大人しくなった。なんか、それはそれで悔しい。ご機嫌なあんずがすりすりと身体を擦りつけるのは、先程まで高尾が擦り寄っていた場所。
「真ちゃん」
「なんだ」
「……にゃあ」
「………」
「…にゃあ、にゃあ」
なんの罪もないあんず相手に馬鹿らしいとも思うけど、どうしても嫉妬せずにはいられない。対緑間限定で、高尾の心は細い針も通らない程狭い。ごめんね、あんず。後でいくらでも好きなおやつをあげるから、俺のだいすきなものを返して。そこは俺だけの場所なんだ。
「真ちゃん」
「……まったく、お前のご主人様は我が侭なのだよ」
「真ちゃん」
「大人しく待っていろ。あんずを放り出してはいけない」
丁寧な動作であんずをゲージの中に戻し、真ちゃんがベッドに戻ってくる。やだ、待ってられないという我が侭を無視された八つ当たりで、くるりと背中を向けた。頭上から降ってきた溜め息と、強引に高尾の身体を向き合わせる力強さ。腕の中に閉じ込められ、僅かな間でも冷えてしまった体温に震える。
「高尾」
「………」
「また明日、アレを作ってやるから機嫌を直せ」
「……うん」
我ながら単純過ぎる自覚はあるが、これも仕方ない。真ちゃんが俺を甘やかすから。おはようからおやすみまで、高尾の生活に緑間が浸透しているのだ。甘やかされて甘やかされて、頭のてっぺんから爪先まで、全部に真ちゃんがいる。巡る血液さえも、全部。真ちゃんの作ったものだけを食べて、真ちゃんにキスをされて、出来上がった俺を真ちゃんが食べる。注ぎ込まれる欲望の証さえ高尾を構成する要素のひとつだと思っているなんて。
「……お前は、本当に単純だな」
「悪かったな、馬鹿で」
「そこが可愛いと思っているのだから、問題ないのだよ」
「……あー、もーうっさいっ」
もう一度、にゃあと鳴いて、無防備に晒された鎖骨に噛みついた。もしも本当に俺が猫ならば、ゆらゆらと揺れるしっぽが左手に絡んで、触って欲しいと素直に強請っていたに違いない。
「……これ以上は、明日アレを作ってやる気力がなくなるぞ」
「え、じゃあやめる」
「………」
「うわ、ちょ、…っごめん、嘘だって。真ちゃん、ごめんって……、なあ、聞いてる?」
「うるさい、黙れ。―――俺を選ばなかったことを後悔させてやるのだよ」