終焉の地にて、君と


その日は星が流れる。
その呟きにも似た言葉を聞いた時、きっとお前と見るその光景は美しいだろうと思った。


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「ただいまー」
そう言いながらドアを開ける。
冷え切った空気を自分の声が震わすのを聞きながら、高尾は白い息を吐き出した。
部屋の中はしんと静まり返っている。
同居人の気配が無いか耳を澄ませるが、どうやらまだ帰ってきていないらしい。
かじかんだ手を擦り合わせながら部屋に入り、暖房のスイッチを付ける。
そして外したマフラーを床に置いた鞄の上に無造作に放り、カーテンを開けた。
時刻は夕方。
西の空はほんのりと茜色に染まり、東の空は青が深くなっている。
高尾は冷え切った窓に湿った息を吹きかけながら、しばらく空を眺めた。
まだ、星は見えない。

今日は世間一般的に言う正月の最終日だ。
その日に流星群が現れると高尾が知ったのはニュースを見ている時だった。
その時はなんの感慨もなく「へぇ、流れ星か」と呟いただけだった。
しかし隣で同じニュースを眺めていた同居人兼恋人である緑間真太郎はそうではなかったらしい。

二人は正月はそれぞれの実家に帰ることになっていた。
年越しは二人で、二人の家で迎えて、そして元日からはそれぞれの家族と過ごす。
それが毎年恒例のことだった。
今年もそのつもりだった高尾が年の暮れに予定を確認していた時、緑間がふと「お前は三日には帰ってくるか」と言った。
普段のはっきりとした物言いとは違う、意図の読めないその質問に高尾は首を傾げながら「なんで?」と返した。
すると緑間は何でもないことのように、
「その日は星が流れるのだよ」
と言った。
予想外のその言葉に、高尾は目を瞬かせた。
そして数日前に一緒に見ていたニュースに思い至り、噴き出す。
緑間の涼しげな顔と、ある意味緑間らしいロマンチックな言葉の組み合わせが可笑しくて、可愛くて。
「うるさいのだよ、高尾」
ケラケラと笑う高尾に、緑間がきまり悪そうに言う。
「ふはっ、わりーわりー!おっしゃ、三日な?」
そう言うと、緑間は仏頂面をほんの少し満足気に緩めた。
その顔を、高尾は心底愛しいと思った。

夜空に光が流れる。

その光景を見たいと思ったのは恐らく初めてのことだった。


「しかし、ちゃんと星を見るのなんて何年ぶりかねー…」
荷物を片付け終わった高尾がリビングのソファに腰かけてしみじみと呟く。
母親が持たせてくれた正月のご馳走の残り物でのおかげで、あまり大きくない冷蔵庫は一杯になってしまった。
しばらく食事の支度はしなくて済みそうだと微笑む。
ふと「緑間君にもよろしくね」と笑ってたくさんの土産を持たせてくれた母親の声がよぎる。
それと同時に、実家での賑やか過ぎるほど賑やかな様子が思い起こされて、今の静まり返った部屋とのギャップに少しばかり感傷的な気分になる。

普段ならば電気を付けている時間だったが、なんとなくその気になれず、部屋は薄暗いままだ。
空はもうすっかり濃い青一色になってはいるが、流星群の時間まではまだ数時間ある。
その時間までには帰ってくるという緑間の言葉を思い出しながら、高尾はソファに体を倒す。
連日テレビを見たりして夜更かししていたせいで重くなった瞼があっさりと降りる。
このままでは寝てしまいそうだとお義理程度に抗ってみるが、一度くっついてしまった瞼はそう簡単には離れてはくれない。
高尾はあっさりと眠気に白旗を振った。
そして、瞼の裏で緑間のことを想う。
今、彼は何をしているだろうか。
電車に乗ってこちらに向かっているだろうか。
それともまだ家で家族との穏やかな時間を過ごしているのだろうか。

みどりまの、かぞく。
自分の知らないみどりま。
ふと、息が苦しくなる。
それは高校を卒業してこの家に二人で住むようになってから、たびたび高尾を襲う感覚だった。

もしかしたら、この部屋が行き止まりなのかもしれない。

月並みな言葉を使えば、まるで磁石みたいに惹かれあって。
まるでそうなることが決まっていたみたいにこの部屋に納まって。

でも、その後は?

「…あー、早く星、流れねえかなぁ…」
独り言が部屋に響く。
ポケットからケータイを出して開くと、攻撃的な白い光が暗闇に慣れた目を刺す。
連絡は、なし。
薄く開いた目でそれを確認した高尾は、ケータイを机の上に投げ出して再び瞼を閉じた。

待つのは嫌いじゃない。
でも、やっぱり寂しくなる時だってあるんだと、そう言い訳がましく思いながら。
それを最後に思考は遠のき、そして高尾は夢を見る。

いつだったか、確かに青春と呼ばれる一時期に自分が立っていたコート。
周りには人が溢れていて、その中心で高尾は笑っていた。
楽しい。
楽しいのは好きだ。
けれど何かが足りなくて、心はどこか乾いていた。
そんな日々のこと。
それでも周りに笑顔を振りまきながらふとコートの中心に目を向けると、長身の男が立っていた。
その横顔、ただまっすぐに前を見据えた静謐とした視線に高尾の眼が縫い止められる。

あ。

目が奪われる。
そう思った瞬間に周囲からは音が消え、二人きりの空間になる。
そして高尾の心臓がまるで断崖絶壁に立ったかのように激しく鳴り始める。
その鼓動が静まりかえったコートに響いているのではないかというほどに。
けれど男は高尾を見ない。
男は床に転がったボールを拾い上げると、呼吸の音すら立てずに腕を上げゴールを見据える。

待って。

高尾は声に出さずにそう言うと、腕を男に伸ばした。
どうか振り向いてと願いを込めて。
そしてどこかで振り向くはずがないと思いながら。
息が苦しい。
なぜこんなにも自分が必至になっているかもわからないまま、ただ懸命に腕を伸ばして足を踏み出す。
高尾の荒い息遣いが密やかに整った空間を乱す。
すると男の弓のように張りつめた指がピクリと震えた。
そして、視線が動く。


パチン。


硬質な音と共に高尾の瞼の裏に光が満ちる。

高尾の目がゆっくりと開く。
「あ、真ちゃん…」
眩しさに痛む目を擦りながら見上げると、見慣れた緑色の頭があった。
「帰っていたのか」
憮然とした態度で緑間が言う。
「ああ、うん。寝ちゃってた。悪い、びっくりした?」
ソファで寝ていたせいか強張る体を緩慢とした動作で伸ばしながら、からかうように高尾が言う。
緑間はそれには答えずに、ふん、と鼻を鳴らした。
その様子に笑みを零しながら高尾が時計を見上げると、ニュースで伝えられていた流星群のピークまであと十五分ほど。
結構な時間、寝てしまっていたらしい。

高尾はソファの上で膝立ちになると、緑間の頬に手を伸ばす。
いつもは白い肌が風を切ったせいか赤く染まっていて、指先からはじんと冷たさが伝わってくる。
唇も冷え切っているが、そこから吐き出される息だけが、熱い。
「真ちゃん、ギリギリセーフじゃん」
そう高尾が言うと、緑間はバツが悪そうに視線を逸らす。
その表情に、高尾は噴き出した。
ああ、幸せだ。
そんなことを思いながら抱きつくと、まるで温めろとでも言わんばかりに腕が回された。

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「寒くないか」
「うん、平気」

ひそひそと交わされる二人の声が夜空に響く。
窓際に座り込んで、ベランダに足を投げ出して。
傍らに置かれたカップからは熱いコーヒーの湯気がくっきりと立ち昇っている。
高尾としては酒が飲みたかったのだが(そのために実家から何本かくすねてきていた)、緑間が酒の缶を見た瞬間眉をしかめて「酒はもういい」と言うので諦めてコーヒーにした。
緑間の家族が中々に酒好きで、実家に帰ると散々飲まされるというのは何度か聞いていたので高尾も知っている。
(緑間にとっては不本意なことに)帰りが遅くなってしまった原因もその辺りにあるのだろうと、若干げっそりとしている恋人を眺めて高尾は含み笑いをした。
明日の朝は何か胃に優しいものを作ってやろうと思いながら。

「しかしこの毛布も役に立ったなー」
二人をくるんでいる毛布に高尾が鼻を埋めながら言う。
その毛布は二人で暮らし始めた二人に初めて訪れた冬に、こたつとセットで買ったものだった。
しかし、そのこたつは今は使われてはいない。

「ねえ、真ちゃん…」
「もうこたつは使わん」
高尾が上目使いで覗き込みながら発した言葉は、緑間に一蹴された。
そのきっぱりとした声が静まりかえった住宅街に僅かに響く。
「えー」
高尾が不満気な声を出すが、空を見据えたままの緑間は結論を変える気はないらしい。

こたつは買ってほんの一週間で緑間によって封印されてしまった。
高尾としてはこたつのある生活は快適そのものだったのだが、緑間はその快適さを堕落と判断したらしい。
日曜日の朝、こたつの中で目が覚めた緑間は眼前に広がった鍋の残骸やら何やら散らかり放題になった光景を目にした。
そして緑間は隣で寝ていた高尾の頭を勢いよく叩くと、寝ぼけたままの高尾に決然とした態度で「こたつを片付けるぞ」と宣言した。
こたつで幸せそうに寝ている緑間を観察するのが密かな楽しみとなりつつあった高尾にとっては残念で仕方がなかったわけだが。

「じゃあせめてこの毛布だけでもリビングで使おうぜー?」
緑間は黙って空を見上げたままだ。
「勿体ないしさー。風呂上りとかにテレビ見てる時とかさ、超いいと思うんだけど」
そう言いながら緑間の肩に自分の頭をゴンゴンとぶつける。
「なあってばー」
緑間は溜息を吐いて高尾の頭を自分の頭で押さえつけると、渋々といった態度で口を開く。
「…寝る時はちゃんと布団で寝ると言うのなら、許してやらんこともないのだよ」
その言葉に高尾はニンマリとして、緑間に擦り寄る。
「おっけー。真ちゃんも一緒に使おうな」
高尾がそう言うと、緑間はちょっとばかり悔しそうに溜息を吐いた。
それを後頭部で感じながら、高尾は今度は慎重にこの堅物を「快適」な生活に慣らしていってやろうと考えを巡らす。
「何をニヤニヤしている」

緑間が言う。
「何、真ちゃん鷹の目うつったの?」
「馬鹿め。見えてなくとも、お前の表情くらいは想像がつく」
ふて腐れたような、それでいてどこか柔らかなその声に、高尾の頬が緩む。
「んー…、なんか幸せだなーって思ってさ」
高尾がその言葉と共に吐き出した息が空に吸い込まれていく。
緑間は唐突な高尾の言葉を怪訝に思ったのか、高尾の顔を覗き込もうとする。
高尾は触れたところから伝わる気配でそれを感じ取り、それを遮るように口を開く。
「なあ、流れ星見えた?」
「いや、まだだ」
緑間が視線を空に戻して言う。
高尾と緑間の息が混ざって消えていく。
それを見送りながら、高尾はふと思い出したように口を開く。
「そういえば中学の時にさ、」
「ああ」
緑間にならって高尾も夜空を眺めながら続ける。
「友達とさ、流星群を見に行ったことがあんだよね。夜に学校に集合してさ、グラウンドに寝そべって」
その時のことは輝かしい青春の一ページとして割と鮮明に高尾の中に残っている。
今と正反対の夏のじめじめとした熱さ。
その風を切って自転車を漕いで。
自分たち以外誰もいないグラウンドに馬鹿みたいにはしゃいで。
「それで、星は見えたのか」
緑間が静かに問う。
「うーん、どうだったかな」
あやふやなその言葉に緑間が呆れたように高尾を見る。
「星を見にいったのだろうが」
「まあ、そうなんだけどさ。まあ男子中学生なんてそんなもんっしょ」
誤魔化すように高尾が笑う。

実際、高尾はその時に見た星のことは余り覚えていない。
ただ友人たちと馬鹿なことをやった思い出として記憶に残っているだけだ。
高尾は特別流れ星に興味があるわけではない。
星空をじっくりと見上げた経験だってほとんどない。
忙しなく過ぎていく日々の中で夜なんてものは超えてきた日々の数だけ訪れていて、その度に頭上に輝いていたはずの、それ。
その存在を忘れてしまえるほどには高尾のこれまでの人生は忙しいものだった。
特に高校生になってからは、もっと鮮やかでもっと眩しい光に心を奪われていたせいでもあるのだけれど。

「ねえ真ちゃん、見つけた?」
「まだだ。お前も黙ってよく見ていろ」
「だって真ちゃんが見つけてて俺だけ見つけれてなかったら嫌じゃん」
「こういうものはお前の方が得意だろう」
緑間の声も表情も真剣そのものだ。
そのどんなことにも全力を尽くさずにはいられない恋人の姿勢に、高尾は声に出さずに笑う。
「まあな。でも多分こういうのはどっか一か所をよく見てないと見つからないもんじゃね?」
高尾が言いながらコーヒーを啜る。
残りが少なくなったコーヒーは少し冷めてしまっていた。

その時。
視界の先で、細い光が右から左へと流れていった。
「あ」
高尾が声を上げる。
「流れたな」
緑間が言う。
「真ちゃんも見えた?同じやつかな」
そう言った自分の声が弾んでいるのと、
「そうかもしれん」
そう返した緑間の声が僅かにはしゃいでいるのがわかって、高尾は何だかおかしくなって今度こそ声を出して笑った。

それからは流れ星は次から次へと見つけることができた。
「あ、また」
高尾が言う。
緑間は黙って星を追い続けている。
その沈黙を埋めるように、高尾の口が動く。
「流れ星って三回願い事を唱えると叶うって言うじゃん」
何度目かの星を見送りながら、高尾が言う。
「ああ」
「あれってどう考えても無理だな。流れ星ってすぐ消えちゃうし。三回とか絶対無理」
そう言って高尾が笑う。
その言葉に、緑間が空に釘付けだった視線を剥がして高尾を見る。
「何か願いたいことでもあったのか」
「いや?そういうわけじゃねえよ?」
高尾は緑間を見ずにそう返す。
「てか真ちゃんは何かあったの?言いだしっぺは真ちゃんじゃん」
「別に俺も星に願いたいことはない」
そう言いながら緑間が視線を星空に戻す。
「ただ、お前と見たいと思っただけだ」
その言葉に、高尾は二、三度瞬きをすると、顔を赤に染めた。
「なんだよ、それ」
そうふざけたように言いながら、緑間の体に自分の体を押し当てる。
そして、きっと仏頂面で、自分と同じように顔を染めているであろう隣の男の表情を思い浮かべる。
あまりにもあっさりとその顔が想像できてしまって、その事実に高尾の顔がさらに熱くなる。

「ねえ」
しばらくして、黙って緑間にくっついていた高尾が口を開く。
そして緑間の返事を待たずに続ける。
「緑間はさ、ほんとに願いごとはないの?」
返事はない。
訪れた静寂に高尾が緑間を見上げれば、彼は考え込んでいるようだった。
その横顔越しにまた星を探しながら、高尾は緑間の言葉を待つ。
しばらくして、緑間がゆっくりと口を開く。
「やはり、ないな」
そして、高尾を見る。

星を探していたはずの視線が、一瞬で奪われた。

「今、俺は十分に満たされている」
その言葉に、高尾は視線に次いで思考も奪われる。
その様子を緑間は満足そうに眺めながら、さらに言葉を紡ぐ。
「後は俺次第なのだよ。だから星には願わない」
その言葉をたっぷり数十秒かけて飲み込んだ高尾は、さらに赤くなった顔を緑間の胸に押し当てる。
それに緑間が微かに笑ったのを感じながら。


そしてまた、星が流れた。
その流れて消えるだけの光に、高尾はたった一つほんの些細な願いを乗せた。

隣で微笑む恋人に気付かれないように、こっそりと。


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なあ。

もしかしたらここが俺たちにとっての行き止まりかもしれない。
それが幸せで、でもたまに不安になって。
そんな、弱虫でいくじなしで怖がりな自分が嫌になる時だってある。
待つのだって嫌いじゃないけど、たまには寂しくなる時だってある。
知らないだろ?
俺がほんのちょっとの体温に、ほんの一つの言葉にどれだけ救われているかってこと。

待つのは嫌いじゃない。
たまに感じる寂しさだってお前が消してくれる。

でも。
それでも、俺はきっとお前よりもほんの少し臆病だから、星にだって縋りたくなるんだ。
いつか、
いつか、思ってること全部言葉にして伝えられる日が来たら。

その時は「馬鹿なやつだ」って言って、笑ってよね。