その恋の名は


 メインのホイル焼きがいい感じに出来上がったところで、ピンポーンと高らかにチャイムが鳴る。
「はいはーい! 今いきまーす」
 インターフォンを通してもないから聞こえるはずもないのに、俺は返事をした。ざっと手を洗ってから、玄関へ向かう。
「いらっしゃいませー!」
 鍵を開けた扉を押し開ければ、色素の薄い金茶の髪で夕日を反射しながら、いつもの不機嫌そうな顔をした先輩が立っていた。久しぶりに見たからか、懐かしさが込み上げてきて、オレは多分すごい顔をしたと思う。
 けど、先輩が押し付けるように何かを差し出してきて、色々と遮られた。オレはそれを素直に受け取って、こてりと首をかしげる。
「何すか、これ」
「土産に決まってんだろ。上がらせろ、さみぃんだよ」
 宮地さんはオレを押しのけるようにして玄関の扉を閉めて、靴を脱ぎ始める。さりげなく鍵かけてくれるところが、礼儀正しいっていうか、気が利く先輩だよな。
「おー! これ、デパ地下の美味いキムチじゃないすか!! でも真ちゃん辛いもん食えねーんすよ」
「緑間にはたまに奢ってやってっからいいんだよ。お前に会う時くらい、お前の好きなもんやったっていいだろうが」
 優しい先輩のお言葉に、オレは目を輝かせて抱きついた。
「宮地さん愛してるぅ!」
「うっぜぇんだよ、靴脱げねぇだろうが! 離れろ、刺すぞ!!」
 オレは先にキッチンに先輩からの土産を置きに行って、遅れてリビングに入ってきた宮地さんのところへ駆け寄る。宮地さんはマフラーを外しながら、ゆるりと部屋を見回す。
「マジで綺麗にしてんじゃねえか」
「宮地さん、コートとマフラーください。かけときますから」
 手を差し出して見上げれば、宮地さんは最高に嫌そうな顔をしてオレを見た。えっ、何でそんな顔されてんだ?! オレの今の行動、出来た後輩として褒められるレベルだよな?!
「キメぇんだよ!」
「ちょっ、何で?! 酷くないっすか?!」
「その新妻みてぇな行動やめろ!! どっかその辺放っとくからいいっつーの!」
「ぶっふぉ! 新妻!!!」
 宮地さんの言葉チョイス酷いな! 手を叩いて爆笑したら、更に嫌そうな顔をされる。
「お前そこは新妻らしく、もっとおしとやかにしとけよ」
「やだー! 旦那がいないからって、変なことしないでくださいね……?」
「あー、キモい、マジキモい。ちょっと黙っとけよお前ホント」
 しなを作って上目づかいを意識してみたら、宮地さんは絶対零度の視線でにらみつけてきた。まあ体育会系男子のノリなんてこんなもんだろう。
 宮地さんはコートを脱ぎ捨てながら食卓に目をやって、感嘆の声を漏らした。
「これ全部お前が作ったの?」
「はい、そうっす」
「マジかよ……。俺んちにも作りに来いよ」
「いいっすよ、一食千円で!」
「たけぇよ、ボケ」
 親指を立てて笑えば、べしりと頭を叩かれた。オレはひひ、と小さく笑いをこぼす。宮地さんは食卓に近寄りながら、そこに所狭しと並べられた料理を見回す。  豚汁にカボチャの煮物、きんぴらごぼうにほうれん草のおひたし、肉じゃがと茶碗蒸しときのこの酒蒸し、焼きナスと海鮮あんかけ、鮭と白菜のホイル焼きにだし巻き卵。
「こんなんどうやって覚えるわけ?」
「あー、最近料理ブログとかあるじゃないですか。ああいうの色々見て、したら、この人が書いてるレシピは結構自分が作りやすいもんばっかだなーって人が何人かいるんで、その人の書いてるやつばっか作らせてもらうんです」
「あー、基礎料理本みてーなのから始めなくていいわけ?」
「バスケと一緒です。ある程度基礎的なこと、野菜の調理の仕方とか、知っとく必要ありますけど、あとは自分が作りたいなーとか憧れるなーっていうレシピ真似て、自分にあったスタイル作ってけば、何となくできます」
 オレが宮地さんや緑間のことが好きなのはこういう部分だ。自分が知らない分野でも、大事な人のやってることに興味持って話振ってくれるとこ。多分本人たちは意識してやってねーだろうし、ただの興味とか向上心かもしんないけど、自分がやってることに興味持ってくれんのは嬉しいよな。
「宮地さん自炊してないんすか?」
「金ねぇからすっけど、こんなまともに料理名ついてるようなもん作らねぇよ。冷蔵庫にある食材適当に切って炒めたりするだけ」
「やー、ちゃんと切ったり焼いたりするだけでもすごいっすよ」
「こんだけ作れる奴にそんなこと言われても、褒められてる気しねぇよ」
 いやいや、レシピ見もしねぇし、食った後の皿洗いもしないどっかの誰かさんより全然偉いって。オレ宮地さんと住んだ方が幸せだったんじゃね?
「でも緑間が和食派だから、オレのレパートリー洋食方面に増えねーんすよ! どんぶり系の一品ものも許してくんねーし」
 自分は家事しないくせに、一汁三菜とか唱える旦那様のせいで、こまごましたもんを作る腕前だけは上がってきた。コンロ三つ稼働させて同時進行で効率よく作るのも得意になってきたし。
「ホコリでも食っとけって言っとけよ」
「うちのエース様にそんなこと言えませんー!」
「で、その緑間は?」
 宮地さんは眉間にしわを寄せて室内を見やる。オレは卓上のケータイに視線をやって答える。
「教授に用事を頼まれたから、少し遅くなる。先に始めていてもいいのだよ。ってさっきメール来ました」
「……お前、その緑間の真似、年々上手くなるな」
「うっは、マジすか! いやぁー、真ちゃんに嫌がられても練習し続けた甲斐があったのだよー」
 オレは冷蔵庫を開けてキンキンに冷えた酒を取り出して、箸を二膳持って食卓へ戻る。既に席についた宮地さんに箸と酒を出して、宮地さんの向かいに腰を下ろした。
「つか、マジでお久しぶりですね!」
「んなことねーよ、卒業式行ってやったろうが」
「あ、そっか。てことは、一ヵ月半ぶり? くらいです?」
 プルタブを開ければ、ぷしゅ、と中に詰まった液体が空気に触れた音がした。そのまま宮地さんのグラスに中身を注いでいく。
「どうですか」
「何がだよ」
「とんでもない後輩二人も入ってきた気分は!」
「毎日愛車で学校来ときゃ良かったって後悔する」
 宮地さんの心底嫌そうな顔に、オレは笑いを隠せない。
 つい半月前くらいから、オレや緑間は新大学一年生だ。それぞれやりたいことを考えて、将来を見据えて進学先を考えたのに、何の因果か示し合わせたように同じ大学になってしまった。学部は別だ。
 で、その進学先には驚くことに宮地さんがいた。相変わらずバスケを続けていて、大学のチームの中でも強豪だ。緑間は勿論その強豪バスケ部が目当てで入学したところがあるので、バスケ部に入った。宮地さんは緑間が来るだけでも嫌そうな顔をしたというのに、そこには番狂わせと言うほかない事態が発生していた。
「まず朝練前に、部室で着替えてる段階で喧嘩し始めんだよ、あいつら。練習始まったら始まったで、やったら張り合いやがってよぉ。いつまでガキ気分でいやがんだ。それでお互いペース配分ミスってりゃ世話ねーよ!」
「真ちゃん、火神と相性最悪ですからね!」
 大学でもバスケを続けている宮地先輩のチームには、今期二人の恐ろしいルーキーが入部した。緑間と火神だ。
 まあ仲良くねーから、お互いの進学先なんか把握してねーよな! オレと黒子は知ってて黙ってたけど!
 ビールとジュースを注いだグラスを軽く鳴らして、乾杯する。宮地さんが酒を飲んでるとこを見る日が来ようとは。
「うん、うまいわ、これ」
「あ、お口に合います? 真ちゃん好みの味なんで、お口に合わなかったらどうしようかと」
「あーもうそういう新婚ムードいらねぇんだよ、マジで。轢くぞ」
 宮地さんがきんぴらごぼうをつつきながら顔をしかめる。きんぴらは特に、辛すぎないように気を付けないと、緑間がうるさい一品だからなー。
「つか、お前バスケ部来いよ」
 突然の宮地さんの打診に、オレは目を丸くした。でもそれも一瞬のことで、ふっと伏し目がちになってだし巻き卵に箸を伸ばす。
「や、ちょっともう、無理っすねー」
 はは、と乾いた笑いを漏らせば、宮地さんは視線を横にずらした。たどって見やれば、テレビの近くに並ぶ去年のIHとWCの時の写真。三年間、全力で駆け抜けた証拠。
 勝ち負けなんて関係ないと言えば嘘になるけど、辛いことなんて無かったとは口が裂けても言えないけど、それでも素晴らしい三年間だったと胸を張れる。泣いて真赤になった目元を緩ませて笑っている、写真の中のオレたちがそれを証明している。
「正直、限界見えちゃうんです、緑間といると」
 ざわついてた心を落ち着かせて、ぽつりとこぼせば、宮地さんが視線だけこちらに放ってくる。
「あいつのシュートにつなげるパス出せるの嬉しいし、それを誇りに思ってやってたのはマジだし、後悔とかしてるわけじゃないんすけど、……やっぱ一番近くで見てっから、オレってもうここが限界なんだなって、思っちまうんですよね」
 見える、マジで見える。奴のスリーがどんどん精度を上げていくのを隣で見てたら、オレの天井が一緒に見える。
 奴が体力をつけて、打てる弾数を増やして、試合終盤に一歩でも後ろから乱れない軌道でまっすぐゴールを突き刺すシュートを撃つのを、毎日見てた。奴にも認められて、周りにも認められて、あれを可能にしているのは相棒のパスあってこそ、とも言わしめた。でも、それでも。
「若いって、良かったなーって思いますよね。こないだ緑間の本借りたら、若さとは自分の力量に対する根拠のない盲信が支える蛮勇のことだって書いてあって、すげぇ納得しました」
 まだ天井の見えない緑間や火神は、まだまだこれからだろう。きっとまだ奴らのプレイには幅が出るし、どんどん伸びていくんだろう。
 じゃあオレは?
 バスケ漬けで駆け抜けた高校三年間が終わりに近づいて、将来を考えた時に、冷静になったら、突然天井が見えた。あ、オレってもうここまでか、って分かってしまった。
「高校入った時の自分すげーって思いましたもん! 何で緑間に張り合えると思ってたんだろ、オレって。緑間のこと認めてる、努力する天才だって認めてるから余計、今じゃ敵う気しません」
 思わず喉が震えた。掠れた声に、宮地さんは気づかないふりをしてくれた。
「きっと多分、これから先も一緒にプレイ続けようとしたら、あいつの足引っ張る日が来ます。あいつのプレーに見合うパスが出せなくなる日が来ます。あいつに同格だと思われなくなるのは、まだいいんです」
 努力する天才に、ついていけなくなるのはまだいい。
「あいつに、『お前のパスはしっくりこない』って言われる日が来るかと思ったら、そっちの方が怖い」
 秀徳に入学して、緑間の存在を知って、倒したい男がチームメイトになってしまったからには同格の存在として認められようと決意した。あいつが負けを知った日も、そこから芽生えた更なる向上心を糧に努力した日も、全部全部隣で見てた。認めさせてやるって意識が薄れたわけじゃないけど、確実にオレの中には、あいつにとって無くてはならない最高のパサーでい続けたいって願望が根付いてしまった。
「そこまで自分卑下する気もないんですけど、緑間の隣に立ち続ける自信はもう無いです」
 だからこそ、天井にぶつかって一緒に歩いていけなくなるくらいなら、奴にとって最高のパサーでいられた高校三年間で時間を止めておくのが、オレの最後の意地でもあると思ったんだ。
 宮地さんはホイル焼きをつつきながら、黙ってオレの話を聞いてくれていた。オレは止まっていた箸を動かして、かぼちゃを口に放り込む。
 しばらく食器の鳴る音だけが響いていた部屋に、宮地さんの静かな声が染み込んだ。
「緑間、丸くなったよな」
 オレはゆっくりまばたきをして、宮地さんを見やる。口の中に甘ったるいかぼちゃの味。
「秀徳入ってきた時、お前知らねーかもしんねぇけどよ、緑間、目が死んでたんだって」
 オレは目を瞠った。
 秀徳に入ったばっかりの頃は、オレはオレの複雑な心を整理して「キセキの世代」緑間真太郎を受け入れることに終始してて、一個人としての奴を上手く見れていなかったと思う。何とか「キセキの世代」が「チームメイト」に変化した頃には、奴自身も「秀徳のエース」になっていて、見逃した姿っていうのはたくさんあったはずだ。
 宮地さんはビールを煽ってから、ひそめたような声で話す。
「桐皇の青峰に近い感じっつーかさ。緑間って結局、あんだけ努力家だけどよ、敵がいてこそだろ。相手がいるから、スリーだって一歩でも後ろから決めてやろうって気になんだろ。でも、覚えてるか? 秀徳の時だって、練習試合やら予選やらの対戦相手って、センターラインより後ろまで下がられたらもう仕方ない、みたいな雰囲気だったろ」
 IH予選に向けて、練習試合も山ほど組んだし、小さな試合をいくつもした。誠凛と当たる前、ほとんどのチームが、緑間は仕方ないと諦めていた姿が蘇る。まだ負けを知らなかった天才エースは、不遜にも一笑に伏すのだ。だからお前らは駄目なのだよ。
「自分が馬鹿みたいに練習してても、諦められちまうんじゃ、張り合いねーじゃん。まあ、それでもあいつ馬鹿みたいに練習してたけどよ。俺、キセキの世代が化け物みたいになる頃には高校にいたから分かんねーけど、あれ、帝光の部活内でもそういう雰囲気だったんじゃねえの? スタメンはどうせキセキなんだから、って諦めてるチームメイトばっかだったんだろ」
 宮地さんに言われてようやく気付く。秀徳でも、張り合う奴こそ少なかったけど、妬まれたりやっかまれたりしている姿をよく見ていたから、全く気にしたことがなかった。
「キセキの奴ら、まあそれなりに今でも仲良くやってるっぽいけどさ、逆に言えば、帝光の部活内ってキセキって六人ぼっちだったんじゃねえの。あ、マネージャーもいたんだっけ? 七人ぼっちか」
 白雪姫の小人みてぇだな、と宮地さんは笑った。森の中に、ひっそり暮らしてる、七人だけの仲間。
 何十人と部員がいるはずなのに、その中で、自分を熱くさせてくれるのは、切磋琢磨できるのは、その気概を持ち続けてくれるのは、自分を抜いてたった六人だったっていうのか。
「だからさ、お前が入部当初張り合ってくんのも、いちいち構ってくんのも、緑間すっげえうざそうにしてるように見えたけど、ありゃ逆だよ。嬉しかったんだろ。そういうことされる感覚忘れてたから、お前の扱いに困ってたんだろ」
 緑間に中学時代負けてんだよと話した時の日の事を、今でも昨日のように思い出せる。やたらと張り合ってくるなと、困ったように揺れた翡翠の瞳。真意を探るような視線。それから、淡い期待の滲む声。
「緑間にバスケプレイヤーとして敵対して火着けたのは、確かに火神と黒子かもしんねーけど、あいつの消えかかってる火をずっと煽って絶やさねーように、いつか自分の火のでかさを思い出す時まで消させねーようにしてたのは、高尾、お前だろ」
 思わず箸を握り締めて、顔を伏せる。
 宮地さんの顔が見れないというよりは、宮地さんにこんな酷い顔を晒せない。
「だからお前、バスケ部来いよ」
 反響するスキール音。重量のあるオレンジが跳ね回る。俯瞰の視点で見つける、いくつものパスルート。奪った球を勝利へつなげるために、振りかぶる腕の感覚。思い描く理想の高さと全く同じ位置で受け取られて、軽く沈んだ後、たくさんの照明の光を遮って宙を裂く軌道。高いループを描くそれを見送りもせず、自陣へ取って返す、オレと、あいつの、足音。
「バスケ差し引いてもお前らだろとか、そんな薄っぺらいこと、俺は言わねえからな。それ待ちだっつーんなら、轢く」
 ああ、そう言ってもらえたら、いくらでも諦めがついたのに。
「バスケあってこそお前らだろ。でも、それはお前のパスで緑間がシュート撃ってこそ、って意味じゃねえんだよ。お前らを繋げて、バスケ関係ねぇところでのお前らをも形作ったのが、バスケだっつってんだよ」
 宮地さんは静かに、諭すような、どっか怒ったような声で続ける。
「でもな、だからってな、バスケに固執しなくたっていいんだよ。部活以外だって一日中一緒で、休みの日まで一緒にバッシュ買いに行ったりストバス行ったりしてたのは、別にチームメイトだからってだけじゃねぇだろ」
 不意に宮地さんが半眼でこっちを見ていることに気づいて、オレは首をかしげた。呻くような、苦々しい声で、指摘が飛んでくる。
「部活帰りにコンビニで買い食いして、暗い駐車場でキスしたの、俺は見たぞ」
「なっ、え、ええ!!」
 あ、めっちゃ覚えあるわ、それ! オレがピザまんで真ちゃんがあんまんで、駐車場で食った初めての時! 真ちゃんがピザまんみたいな亜種を食べる意味が分からんとか言うから、ちょっと味見する? ってちゅーしたら殴られたやつ。見られたらどうするって緑間怒ってたけど、見られてたんですね……。
 オレがいたたまれなくて視線を逸らしたら、宮地さんはため息を吐いてこぼした。
「買い食いして、人目忍んでこっそりキスすんのは、バスケ通して築いたお前らの関係かもしんねーけど、バスケは直接関係ねーだろ」
 オレの耳に、じわりじわりと宮地さんの声がしみ込んでいく。
 きっつい練習の合間、しんどくて吐いたオレの背中を、ずっと撫でてくれていた。部活帰りの別れ際、じっとり汗ばんだ腕をつかまれて、掠め取るようなキスをされた。ピアノ弾いてる横でカードのデッキ組み始めたら、聞かせ甲斐の無い奴だって怒られた。
 全部全部、バスケが根底にあって、でもバスケだけに支えられたわけじゃない、オレとあいつの思い出。
「選手として限界見えてるから辛いって言い分は分かったけどな、緑間と同じコートでパス回してやりたいのに出来なくなるのが辛いってのは分かったけどな、出来なくなる前から勝手に辞めてんじゃねえよ。こないだまで秀徳の看板背負ってたの忘れたんじゃねえだろうな?」
 ぐっと色んなものを飲み込んで、ようやく顔を上げれば、宮地さんが全然酔ってない真摯な目でこっちを見ていた。
「秀徳高校バスケットボール部のスローガン言ってみろ」
「……不撓不屈、ですっ」
 諦めようとしてたオレの喉には、痛い言葉だ。消えそうな声で絞り出したら、宮地さんは高校時代よくそうしてくれたように、オレの頭を力任せに混ぜっ返した。
「今度、見学行ってもいいっすか」
「火神と緑間が、お前を見学だけで帰すって自信あんなら私服で来てもいいけど、ジャージとバッシュ持って来いよ」
「それもう入部決定じゃないすかぁ」
 やだー、と力なく笑ってみせれば、宮地さんは眉間にしわを寄せた。
「真面目な話、火神と緑間入って、あいつらのこと上手く使ってやれるPGいねぇんだよ。だから緑間に高尾連れて来いっつってたのに、緑間から何も聞いてねえのかよ」
「え、何それ。真ちゃん、んなこと言ってきませんよ」
「あー、あいつ轢く。マジで轢く。先輩の言葉伝達もできねぇとか、帰ってきたら轢くわ」
 入学式の前、春休みの段階からバスケ部に練習に行っていた緑間から、一度だけ聞かれたことはある。お前は大学ではバスケはしないのか。笑って曖昧に誤魔化した意味を、きっと奴は奴なりに解釈したんだろう。それ以来お誘いは一度も受けてない。
「さっきからお前の話聞いてたら、いつか緑間とも縁切る覚悟かと思ったけど、それ見たら、安心した」
「それ? って、CDラックですか?」
 リビングにはCDコンポとCDラックがある。オレも緑間も携帯式のプレイヤーより、でかいスピーカーで聞くのが好きだし、奴はクラシックでオレはロックのCDを大量に持ってるからだ。リビングのCDラックは二人の持ち物で溢れ返ってる。
「何であれで安心するんですか?」
「お前、あれ、簡単に撤去できねーだろ。ここに居続ける気だろ」
 二人分のCDが入り乱れてるCDラック。最初はお互いの持ち物ごとに分類してたけど、段々相手の聴いてるものが気になって勝手に引っ張り出して聴くようになってきて、遂には置き場の境界線が曖昧になった。
「まあ、何つーか、良かったわ」
 心配されてたってのにも何だか泣きそうになったし、指摘されたCDラックを見たら余計に泣きそうになった。
「……おい、お前らの家でお前泣かしたら、緑間に何か言われんの俺だろうが」
「……泣いてないっす」
 ゆるく首を振ったら、宮地さんは小さく一つ舌打ちをして、豚汁に口をつけた。
 しばらく食器が鳴る音が静かな部屋に響いた。居心地悪くないのは、宮地さんが優しい雰囲気出してくれてるからだろう。本当にこの人には頭が上がらない。
「お前らいい加減俺が間に入らなくてもやっていけるようになれよ、うっとうしい」
「えー、見捨てないでくださいよー! オレ真ちゃんとケンカしたら『実家に帰らせて頂きます!』って宮地さんち行く気満々だったのにー」
「実家じゃねえよ。絶対来んなよ、来たら刺す」
 宮地さんは心底嫌そうに吐き捨てた。でもそんな嫌そうな顔をするけど、何だかんだで助けてくれることをオレは知っている。甘えちゃ駄目だとは思うけど、助けてくれる人がいるって知ってると、ちょっと気分が楽だ。
「お前他に何か問題抱えてねーだろうな」
「えっ、相談乗ってくれるんですか?」
「おい、そこはありませんって言えよ、轢くぞ」
 宮地さんにうろんな目を向けられて、オレは眉をハの字にして、緩く笑ってみせた。
「二人で暮らすようになってから、真ちゃんが手出してきてくれないんですけど、どう思います?」
「あー、もうそういう話マジ聞きたくねーんだけど! 誰か別の奴に話せ。はい、終了。お前今何やってんだっけ? 社会学? お前向いてそうだから、教員免許とか取っとけば?」
「ちょっと! 可愛い後輩の悩み相談乗ってくださいよ!」
「うるせぇんだよ、刺すぞ! 何が悲しくて後輩共のベッド事情なんか聞かなきゃならねぇんだよ! 俺は気分良く酔いに来たんだぞ、今日!」
 空になったグラスを揺らして催促してくる先輩にへらへら笑いかけて、オレは缶に残っていたビールを注ぎ足す。
「やぁだ、先輩ってば! 夜はまだ始まったばっかですよぉ?」
「今すぐその口閉じやがれ、焼くぞ」
「実は酒のつまみに鶏ポン冷やしてるんですけど、いりますー?」
「……とっとと寄越して、相談は手短に済ませろ」
 はーい、とオレは愛嬌たっぷりに返事をして、冷蔵庫から皿を取り出して食卓に戻る。緑間との付き合いで嫌というほど分かってる。ツンデレは理由さえ与えれば、結構簡単にデレてくれる。
「……で?」
「新婚なのにセックスレスなんです」
「大学で彼女できたんじゃね? はい、終了」
「宮地さんひっでぇ! 思ってても言わないで下さいよ、そういうの!」
 わっと大袈裟に泣き真似してみせれば、宮地さんから面倒くさそうな舌打ちを頂いた。
「断られたのかよ」
「いや、断られてはないですけどー……、っていうか、誘ってはないんです。緑間さっさと寝ちゃって、何も無い感じです。折角二人暮らし始めたんだから、夜とか、こっちは期待するじゃないですか!」
「緑間が空気読めねぇのは今に始まったことじゃねぇだろ。声かけないお前も悪い。以上」
「えええ、宮地さん見捨てないでくださいよー!」
「うるっせぇな、轢くぞ! お前も男なら、緑間襲ってやるくらいの勢いでいけよ! それでも何もしてこねぇならぶん殴ってやりゃいいんだよ!」
 おお、目から鱗。なるほど、オレから押し倒すという手も有りか。
 オレがはっとした顔をしたら、宮地さんは盛大に眉間にしわを寄せて茶碗蒸しをすくう。
「お前は普段べらべら喋ってる癖に大事なことは自己完結で言わねぇのが駄目なとこで、緑間はすげぇまともなこと考えてるのに過程じゃなくて結果しか言わねぇからぶっ飛んでるように見えんのが駄目なとこ」
「それ、つまり言葉足りねーってことっすよね」
「それ以外に何かあんのか、埋めんぞ」
 宮地さんが吐き捨てるように言った。冷たい調子だけど、心配してくれてるからこそ色々言ってくれるってのは、分かってる。オレは含み笑いをして、怪訝そうな顔で見てくる宮地さんに緩く首を振った。
 それから他愛ない話を一つ二つした。緑間はまだ帰ってこない。
 宮地さんが来てから一時間は経つのになー、と特に連絡の無いケータイを眺めてから宮地さんに視線を戻せば、宮地さんはグラスを抱えたままうつらうつらしていた。
「宮地さん、酔っちゃいました?」
「……ん、悪ぃ、すっげ、眠ぃわ」
 一応まだ受け答えはできるらしい。気を抜くとかくんと首が折れる宮地さんの手からグラスを奪って卓上に置いて、水を入れてくる。
「お疲れです?」
 宮地さんなら自分のペース忘れて飲むわけないだろうなと思って尋ねたら、宮地さんは水を喉に流し込んでから、とろんとした目を虚空に向けてつぶやく。
「新しいエース様二人が、マジ、手かかっから……」
「あー、デジャヴ……」
 緑間が秀徳に入って、オレと緑間がレギュラーに選ばれた時も、色んなことを宮地さんが裏から助けてくれていたことを思い出す。緑間も高校三年間でだいぶ丸くなったし、火神は元々割合良い子だから、昔よりはマシだと思うけど、まあまた別の問題点があったりするんだろう。
 相変わらず面倒見の良い宮地さんに苦笑しつつ、オレはうつむいた宮地さんに声をかける。
「気分悪いです? 眠いだけ? ソファ行きますか? 寝てていいっすよ、何なら泊まってってくれていいですし」
 矢継ぎ早に色々質問してしまったけど、アルコールに侵されてもそれなりに意識を保っている宮地さんは、ゆっくり視線を上げて、オレを見た。
「ちょい、肩、貸せ……。ソファ借りる」
「了解っす」
 気分が悪いわけじゃないらしい。宮地さんに肩を貸して、椅子から立ち上がらせようとした瞬間、足がふらついたらしい宮地さんがバランスを崩す。
「っぉ、わぁ!」
 さすがに自分よりでかい先輩がよろけるのを支えきれなかったオレは、一緒にバランスを崩す。二人してフローリングにしたたかに体を打ち付けてしまった。
「いっ……てぇー……! 宮地さん、大丈夫ですか?」
「……ってぇな、高尾、轢くぞ……っ」
「オレのせいじゃないでしょ!」
 理不尽なことを言う宮地さんの、力の入ってない重い体をどうにかこうにか起こそうとする。のしかかられるようにして倒れたので、酒のせいで動けない宮地さんをどけないと、オレもどうしようもない。
「宮地さん、ちょい、起きれないっすか?!」
「……あー、無理……。頑張れ高尾」
「ちょっと、もぉ! 頑張れじゃなくてっ、……って、宮地さん?! えっ、おい、ここで寝るか、普通?!」
 規則正しい寝息が繰り返される。おいおい、マジかよ! ソファ行ってからにしてくれよ!
 どうしたもんかと困っていたら、ようやくそれに気づいた。オレは目を瞠って、リビングの入口へ視線をやる。
「真ちゃん! 帰ってたのかよ、悪ぃ、気づかなかった!」
 派手な音立てて転んだ時にでも入ってきてたのか、緑間がそこに立っていた。オレの鷹の目仕事しろ。
 緑間はオレの声を聞いて、目を細めた。レンズの向こうで、翡翠の瞳が険しい色を孕む。
 オレは今の自分の状況を顧みて、うぬぼれているわけじゃないけど、はっとした。
「や、あの、宮地さん酔って転んじゃったんだって! ちょっと手貸してくんね? 宮地さんソファに運んだけたいんだけど」
 これはちょっと、まずいかもしれない。
 別に相手は宮地さんだし、どうってことないはずなんだが、緑間のあのひそめられた眉を見る限り、奴はこの状況を快くは思ってない。
 まあ正直、同居を始めて一か月手を出してこない辺り、緑間が何を考えてるのか分からないけど、他の男と接触してるのを見て不愉快そうなのかな、とか、考えたりな!
 緑間は無言で近づいてくると、宮地さんを軽々と抱き上げてソファへと運んでくれた。オレが何となくほっとして体を起こしたら、緑間は引っ張り上げるようにオレの腕をつかんだ。促されるままに立ち上がる。
「真ちゃん、あの、宮地さんとは何もねーからな? 誤解無いように言っとくけど、マジあの人酔っ払って寝ただけだかんな!」
 どうやって弁解しようか、っつーかマジで別にやましいことは一つも無いんだけど! 胸中で焦りながら説得の言葉を考えてたら、腕を引かれた。
「高尾」
「えっ」
 抱きすくめられるようにして、キスを奪われた。力強い腕が、逃げるのを許してくれない。
 腕を突っ張って体をよじろうとしても、19cmの体格差は半端じゃない。っつーか、春休み中お遊び程度のバスケしか続けてないオレと、大学決まってすぐに大学のバスケ部の練習に混ぜてもらいに行き始めた緑間では、もう体力にもじわじわ差が出始めてる。
「待てって、何、何なんだよっ、おい緑間!」
 寝ている宮地さんを起こさないように、ひそめた声で詰っても、反応が返ってこない。
 急に体を離されて腕を引かれたと思ったら、連れて行かれたのはリビングに面したオレの部屋。本気で抵抗すればさすがにオレもされるがままでは済ませないんだけど、何か言いたげな緑間をのっけから拒否したいわけでもない。
「っ、どわぁ!!」
 振り払うように手を離されて無防備になったところを、突き飛ばされてベッドに沈む。どっかに頭ぶつけたらどうすんだよ!
 ばたん、と扉の閉まる音が耳に入ってきて、慌てて不安定なベッドの上で身じろぎする。体を起こそうとしたら、後ろから緑間がのしかかってきた。
「ちょっ、おい、おい! 何怒ってんだよ! 相手宮地さんだよ! ホント何もねーから!」
「うるさい、黙れ」
 地を這うような低い声が降ってきて、オレは暴れかけていた体を落ち着かせる。ダメだ、何か分かんねーけど超怒ってる。触らぬ神には何とやら。これ以上無意識にスイッチ踏む前に、大人しくしとくに限る。
 えええー、多分これ浮気疑われてるんだよな? 宮地さんに妬いてんだよな? ってことはこれあれだよな、お仕置き的なあれだよな? 新居での結婚初夜がお仕置きエッチとか、ロマンチックさの欠片もねーな!
「真ちゃん、あの、待って、あ、いや、待たなくていいけど! あの、一個聞かせて、何に怒ってる?」
 一応自分が怒られてる内容だけは把握しておきたい。オレの予想とは違うかもしれねーから。謝るにしたって、何を謝りゃいいのか分かんねーのはちょっと!
 予想通り、着ていたパーカーをまくりあげる緑間の手に、後ろ手ですがる。緑間はオレのその手も払いのけて、アンダーのシャツの中に手を潜り込ませた。ひやりとした手が背骨の上に触れる。寒い中先輩と恋人待たせてるからって急いで帰ってきてみりゃ浮気現場じゃ、そりゃ怒るか。
 いや、待って! オレ浮気してねーから!
「進学先が同じだと分かってから、お前、オレに対してよそよそしくなっただろう」
「え、は?」
 どうせ宮地さんのこと言われるんだろうなと思ってたのに、予想外の切り口に思わず間抜けな声が漏れる。
 緑間の声は、熱のこもった真剣な調子だ。でもどちらかと言うと、怒っているというよりは、戸惑っているような声音だった。
「バスケを」
 緑間の口から出た単語に、オレの喉が知らず震える。
「バスケを続けると言ったら、お前はもう一歩オレから距離を置いた。お前は続けないのかと尋ねたら、笑って流したろう。あの時に分かったのだよ。オレとお前の関係は、高校三年間の、秀徳のバスケが作ったものだと」
 肩越しに振り返れば、緑間がどんな顔をしているのか見えたのかもしれない。けど、冷たい指先が、オレの背に置かれたまま動きを止めている。オレは振り返れない。きっと緑間だって、今振り返って欲しくないはずだ。
「お前を離したくなくて、同居を申し出た。色々と理由を述べたが、オレの目的は一つだけだ。『バスケ』や『秀徳』の枠組みから外れたオレとお前に、つながりが欲しかったからだ。つながりが無くなった途端、お前が一線を引いたような気がしたからなのだよ」
 社会勉強のつもりで親元を離れてみようと思う、どうせ一緒の大学なら、家賃や家事の負担も半分になるから一緒にどうだ。そんな理由を口にしながら、ウォークインクローゼット付きの家の間取り図を緑間が持ってきた時、真ちゃんどんだけ衣装持ち! と爆笑した記憶がある。
 くっと、背中に乗った冷たい指先に力がこもる。
「お前はオレとの新しい関係性に悩んでいるのだと思ったのだよ。オレの新しいチームでの話も、楽しそうに聞いてくる。バスケを嫌いになったわけではないようだ。相変わらずオレの願掛けやこだわりはきちんと尊重する。オレ個人を疎ましいと思い始めたわけではないようだ。同居を始めて一か月、お前を分析して、お前が落ち着くまで待とうとしていたのだよ」
 ああ、全然手出してこないと思ったら、お前はオレを待ってたのかよ。じっと、我慢が得意な子供みたいに。
「別に、先輩との浮気など疑っていない。お前は軽薄そうに見えるが、誠実な男だ。バスケにかける情熱を、プレースタイルを、三年間誰よりも近くで見てきたオレをなめるな。お前がそんなことをする男ではないことなど、とうの昔に知っているのだよ」
「いやぁん、超信頼されてんじゃん、オレ。和成恥ずかしいわー」
「茶化すな」
 あんまりにも恥ずかしい言葉を連発されたので茶化したら、怒られた。
 オレの体温が移って温もった手が、ゆるりと動いた。思わず肩を跳ねさせたら、緑間はぽつりとつぶやいた。
「だが、オレとの関係にはもがき悩んでいるくせに、先輩とは『バスケ』や『秀徳』を離れても仲睦まじいのかと思ったら、……腹に据えかねる」
 言いたいことは終わりらしい。本格的に動き出した手が、オレのボトムにかかる。オレは後ろ手に緑間の手首をつかんで、その動きを止めた。
「おい、緑間、自分だけ言いたいこと言って終わりとか、ねーだろ! 人事尽くせよ、エース様っ」
 言いながら、今はもう火神もいるから、チームの中心である唯一無二のエース様ではなくなったんだなと、ちょっと寂しくなった。
 しかしオレの言葉を受けてちょっと冷静になったらしい緑間は、手の動きを止めてくれた。
 オレは深呼吸をして、そのままの体勢で口を開く。
「確かに、ちょっと距離置こうとしてた。お前の言うとおり」
 バスケや高校の枠組みから外れた、新しい関係性。確かにそう言われると、すごくしっくりくる。バスケでつながってたオレたちから、バスケをなくしたらどうなるんだろうって、きっとオレは不安だった。
「真ちゃん、気づいてるかもだけど、オレ、もうお前に見合うプレーできっか怪しいのよ」
 言うのにすごく勇気が要った。緑間本人に、自分の口でこんなことを言うのは、すごく気力が要った。
「それ、ちゃんと、自分でも確認しときたかったし、お前にも分かって欲しかったから、一回距離置きたかったんだよ」
 緑間と同じコートに立てねえのに、ベンチから緑間のプレー応援する自信無かったんだよ。だからもう、一緒にバスケは続けられねぇと思った。それが自然と言動に出ていたんだろう。不安にさせたのは、純粋に悪かったと思う。
「けど、さっき、宮地さんがさ、バスケあってのお前らだろって言ってくれたんだって」
 緑間の指が小さく跳ねて、オレの背を滑った。オレは真っ白なシーツの海を眺めながら、背後の緑間の表情を想像する。
「オレがバスケしなくたって、オレとお前をつないだのがバスケってのは変わんねぇし、かといって、オレとお前をつないだのがバスケだからって、無理にバスケに執着しなくていいんだってさ」
 見学に行ったらきっと、オレは悔しくてたまんなくなるだろう。理想のプレーをする緑間が目の前にいるのに、ついていかない自分の限界に腹立たしくなるだろう。でも、そんなん、今までだって何度も経験したんだ。バスケが嫌いになりそうな時だってあった。自分の才能の無さを恨んだこともあった。
 中学時代、緑間に負けて、オレのバスケ人生の当面の目標は緑間を倒すことになってた。それが高校三年間で変質して、認めさせてやる、になってた。すり替わってた。でもそこがゴールじゃなかったんだ。緑間に認められて、オレのバスケは終わりじゃなかったはずだ。それは大事なことだったけど、それに捉われなくても良かったはずだ。
「お前が唸るようなパス出して、それでお前があの綺麗なスリー決めんのが、オレのバスケの終着点だと思ってたけど、違うよな。あれは一つの完成形で、オレのバスケにはまだ他の形だってあって、お前のバスケにだってまだ他の形だってあって、そんで」
 恐る恐る、後ろを振り返る。
 緑間は、見たことのない顔をしていた。
 こいつと出会って三年間、恋人って関係になってから二年半、色んな表情を見てきたつもりだったのに、まだオレが見たことのない顔があったなんて、ちょっと悔しい。泣きそうな、どこか憤りを潜ませた、うっすらと微笑んでいるような、色んなものがないまぜになった、その顔を見て、どうしようもなく愛おしく思った。
「オレとお前の関係にだって、まだまだ色んな形があるはずだよな」
 他校から見れば、秀徳のエースと相棒。先輩や後輩から見れば、三年間一緒に駆け抜けてきたチームメイト。同校の奴らから見れば、よくつるんでる同窓生。お互いの家族から見れば、一番仲の良い友達。それから、事実を知るごくごく少ない身内から見れば、おおっぴらには言えないけど恋人同士。
「別に単語にこだわらなくていいよな、オレら。恋人の前に相棒だし、相棒の前に恋人っしょ?」
 自分で言っておきながら、それがしっくり来た。いつだって、友達なのか、恋人なのか、相棒なのか、悩んでいたのはオレだった。それを緑間は、悩んで離れようとするオレをとどまらせて、待っていてくれた。
 緑間が、顔を伏せる。背中に顔を押し付けられて、肩越しに振り返るのが辛くなったので、オレも首を元に戻す。
「……バカ尾」
「悪ぃ、お待たせ」
「遅いのだよ」
「ごめんって。真ちゃん、眼鏡曲がるぜ」
 ボトムにかかっていた手が、抱きしめるようにオレの肩をつかむ。試合に負けた時だってなかなか聞けない、緑間の弱り切った声を、オレが出させたんだと思ったら、申し訳ないのと同時に気分が良くて、オレは小さく笑った。
 しばらくぐりぐりと押し付けられる額の感触を楽しんでいたら、オレの肩をつかんでいた手が不穏に動き出す。
「ん、え、何」
 脇腹を撫でさすって、体の線を確かめるようになぞっていく指の感触に慌てれば、緑間は柔らかい声を落としてきた。
「一か月、お前の考えがまとまるのを待ってやったのだよ」
「や、そうなんだろうけど」
「同居を始めれば、好きな時にお前に触れるだろうという下心もあったというのに、お前のせいでオレは一か月も何もできなかったのだよ」
「オレのせいかよ!」
 思わずツッコミを入れた。元気になってくれたのはいいけど、相変わらずゴーイングマイウェイだな、お前!
 オレを昂ぶらせようと、確固たる意志を持った恋人にいやらしく触られて、何も感じないほどオレだって枯れてない。腰をなぞられるだけでも這い登ってくる感覚に、思わず息を詰める。
「一か月何もしなかったのはお前の判断だろ! オレ誘われてもねーから、嫌がったりもしてねーよ!」
「うるさい黙れ。今日は寝かさんから覚悟しておくのだよ」
「明日一限から授業なんだけど!!」
 抵抗しようにも、そもそもうつ伏せでのしかかられている上に、奴がとんでもなく大事にしている左手だってオレの体を這い回っているので、いかんともしがたい。
 無様にも足をばたつかせたけど、緑間は一向にやめる気配が無い。オレだって、ようやく求めてもらえた安心感で胸がいっぱいで、本気でやめてほしいとは思ってないから、重症だろう。男なのに足開かされることに反感を感じてたはずなのに、いつからこんな女々しくなったんだよ、オレ。
 オレはせめてもとシーツを握りしめながら、消えそうな声でぼそぼそとこぼす。
「顔が見えねーから、後ろからは、いや、なんだけど……」
 ぴたりと緑間の手が止まる。控えめに後ろへ視線を放ったら、情欲を孕んだ翡翠の瞳と目が合った。その視線の熱さに一瞬だけ怯んだら、そりゃあもうとんでもなく嬉しそうに、奴の口角が上がった。
 とりあえず、今からは恋人の時間ってことでいいんだろ、エース様。



 マジ、体きっついわ。
 何度かゆっくりまばたきをして、軋んで悲鳴を上げる体を何とか起こす。やっばい、腰だるい。下半身痺れてるみてぇ。
 オレの体に好き勝手したエース様は、隣で既に夢の中だ。お前、晩飯も食わずに、よくあんだけできるよな。
 ベッドサイドの時計を見れば、暗闇でも光る仕様のデジタル時計は三時を刻んでいた。うわー、オレどんだけ意識飛ばしてたんだろうなー。
 体中べたべただし、体内の異物感が酷い。二度寝する前に風呂入ってさっぱりしとこう。
 体にこれ以上の負担をかけないように、探るようにしながら布団から抜け出す。小刻みに震えている爪先を床につけて、感触を確かめる。
 腹の奥の方が痛んだけど、我慢できないほどじゃない。力の入りづらい足を叱りつけて、どうにかこうにか立ち上がった。生まれたての小鹿か何かか。
 がっついてた緑間のせいで着ているパーカーまでどろどろだった。洗ったところで二度と着る気になれねー。とりあえず風呂場まではこれ着といたんでいっか、寒いし。
 部屋の扉を開けようとしたところで、不意にがくりと足から力が抜けて、オレはその場に崩れ落ちた。どっかにぶつけたらしく、がん、ごん、と派手な音を立てた手が痛む。
「ぅ、くっ……」
 ついでに体内に残っていたらしい液体がどろりと溢れ出して、その感覚にぶるりと体を震わせる。自分の体を抱きしめるようにうずくまっていたら、突然目の前の扉が静かに開く。
「う、ぇ、……うぁ、宮地さん……っ」
 現れた人影を見上げて、一気にざっと血の気が引く。
 やべぇ、完全に、完璧に忘れてた。何も考えてなかった。オレ、全然声上げんの我慢した記憶ねーわ。っつーか、先輩放ったらかして、オレら何やってんのって感じじゃね?
 宮地さんはあのお決まりのどす黒い笑みを浮かべて、オレに視線を合わせるようにかがんできた。
「よぉ、起きたか」
「す、すんませんっ……」
「まぁ酔って寝た俺も悪かったけど、お前ら何なの? いちゃつくならせめて俺のこと家から追い出してからにしろよ。こちとら勝手に鍵開けっぱで帰るわけにもいかねーから、ずーっとお前のあんあんうるせぇ声聞いてたんだけど」
「ぎゃあああ」
 憤死しそう。
 オレが両手で顔を覆って体を二つ折りにしたのに、宮地さんは言い足りないのか、追撃をかましてくる。
「何で俺が、後輩共がヤってる間中それ聞かせらんなきゃなんねーんだよ。緑間に声抑えろって言われてたろうが。真ちゃん好きぃ、じゃねぇんだよ」
「もうやめて! 和成のライフはゼロよ!」
 恥ずかしすぎて顔から火が出る。声にならない悲鳴を喉から絞り出していたら、宮地さんはオレをその場に放って部屋にずかずか入り込み、ベッドの上の緑間を踏むように蹴りつける。
「おい、緑間! ぐーすか寝てんじゃねえよ、てめぇは! とっとと高尾風呂に連れて行け!」
 緑間は乱暴な扱いをされることに慣れてないからか、宮地さんの声に驚いたのか、びくりと体を跳ねさせて目を覚まして、早々に状況を察したように飛び起きた。
「宮地さん……」
 緑間が慌てて何か言い募ろうとしたのを遮るように、宮地さんは荒々しく部屋を出ていく。リビングに放っていた荷物を拾い上げて、宮地さんは呆然としているオレと緑間に言い放った。
「高尾、見学来んなら明後日の夕方にしろよ。レギュラーメンバーあらかた揃ってる時間だから、話しやすい。あと、晩飯ごっそさん、美味かったわ。三人で飯すんのは、今度仕切り直しだ。俺んちでやっから、予定空けとけよ。おい緑間、明日の朝練遅れやがったら、轢くからな」
「……遅れるわけがないのだよ」
「先輩に舐めた口きくんじゃねえよ。おい、鍵締めとけよ!」
 宮地さんはどかどかと玄関に向かいながら、声を張り上げる。追いかけようにも四つん這いでしか行けなさそうなオレの代わりに、緑間が玄関へ向かった。
「それから!」
 靴を履いた宮地さんが、振り返った。
「同居してるっつっても、ほどほどにしとけよ! 試合の日に腰抜けてろくなプレーできませんとかほざいたら、二人まとめて轢く!!」
 夜中に近所迷惑極まりない音を立てて、宮地さんが勢いよく出ていく。
 最後に残された言葉が、オレが入部前提の、というか、オレも緑間もレギュラー前提の言葉だったような気がするが、そこはあえてつっこまないようにする。何たって、オレと緑間のこれからの関係はまだ未定で、だけどちゃんと今までからつながってる先にあるものなので。
「真ちゃん」
「何だ」
「……次の日曜、バッシュ買いに行くの付き合えよ。最後のWCで履き潰す気だったから、もうボロボロなんだわ」
 もう一回、同じコートでパスを回してやれるかどうかは、まだ分からない。もう一度周りに相棒って言わしめることになるかは、まだ分からない。
「……久しぶりに、リヤカーを出すか」
「いや、もうオレあれ引かねーかんな?!」
 それでも確かに、今まで親友で恋人で相棒であり続けたオレたちは、これからも続いていくんだ。
 オレたちの恋には、まだ名前が無い。