ある金曜日の夜


小さな食卓の上に並ぶ、時の経過に伴い温度を失っていく料理たちに慣れた手つきでラップを被せる。傍にあった椅子に腰を下ろし利き手で頬杖をつくと、高尾は壁に掛かった時計を見遣り小さな溜息をひとつ零した。時刻は午前一時過ぎ。しんと静まり返った室内で吐き出された溜息は、余計に高尾の虚無感を膨張させる。
今日でもう四日目だ。高尾の高校時代の相棒であり、現在の同居人である男――緑間真太郎は、四日連続で日付変更前にこの家に帰ってこなかった。緑間は幾度も高尾との関係における肩書きを変えてきたが、出会った日からずっと高尾にとって大切な存在であることに変わりは無い。そして現在、緑間は同居人であると同時に恋人でもあるのだ。故にここ最近の緑間の帰宅の遅さは高尾を無性に不安にさせた。
言おうと思えば文句は言えるのだが、そんなことに時間を割くのは勿体無いと今日まで言えず仕舞いだ。何せ二人が唯一顔を合わせることが出来るのは朝食の時間の僅か三十分弱のみ。内半分は食事に費やしてしまう為、会話ができるのは実質およそ十五分となる。その貴重な時間を説教などに使いたくは無かったし、緑間は高尾よりもレベルの高い名の知れた大学に通い、アルバイトにも明け暮れている。立場が違うどころか自分よりも大変な立場にいるだろう相手を責める気には到底なれなかった。

「つっても、寂しいもんは寂しいじゃん」

同棲が決まった時から高尾もアルバイトをするつもりで手探り次第に求人情報を集めていたのだが、それを見つけた緑間に咎められてしまった。緑間は無愛想に一言、お前が働く必要はない、その代わり家のことは任せるのだよ、と高尾に告げた。緑間の言葉通り、その日の授業が全て終わると高尾は友人からの飲み会の誘いも合コンの誘いも悉く断っては家に直帰し、洗濯や掃除、料理と家事に勤しんでいる。大学生らしさの欠片も無い毎日だが不満などからきし無かった。寧ろ気に入ってさえいると言っていい。元より高校時代から緑間の為に試行錯誤をするということは苦痛でなかったし、こんなことを緑間に告げようものなら不機嫌になるのは目に見えているので口にしないが、気分はまるで新婚の様であったから。

しかし肝心の緑間が不在である今、到底楽しいなどとは思えない。二人の家で一人時間を浪費する寂しさが募るばかりだ。極力緑間の帰りを待とうと遅くまで起きてはみるのだが、現在高尾の履修している授業の多くは一限から、更に不運なことにそれらは全て必修であるため下手に徹夜などはできない。何より心配性である恋人は高尾が夜更かしをしていることを快く思わないらしい。以前深夜に帰ってきた緑間を玄関まで出迎えた際、何故こんな時間まで起きているのだとこっ酷く叱られてしまった。

「何で真ちゃんは良くてオレはダメなんだかわっかんねーよなあ……」

あの時は大人しく飲み込んだ不満を今更ながら口にして食卓の上に突っ伏す。何も緑間が彼自身の為に怒ったのでは無いことくらい理解している。だからこそ高尾は不満なのだ。緑間が高尾の為に何かをしてくれるように、高尾もまた緑間の為に何かしたいと思っている。
もしこのまま緑間ばかり無理をして倒れてしまったら、もしこのまま二人の時間が取れなくなってしまったら、もしこの生活をもう終わりにしないかと告げられてしまったら――。考えるだけで悪寒がする。同時に高尾は自身を卑下した。結局我が身が可愛いだけだ。緑間が離れていくことが怖いと勝手に依存して、勝手に不安になって。

「……真ちゃん」

互いにとってこの家は通学に便利だから、と口実をこじつけて成立した同棲生活は、既に三年目を迎えていた。同棲をしてみたら嫌な一面も目の当たりにするだろうと密かに覚悟をしていたのだが、不思議なことに共に過ごす日を重ねればそれだけ緑間を好きになる。高尾が緑間に寄せる想いは褪せるどころか強まっていった。その原因が惚れた弱みであるのか、或いは緑間が同棲を始める前と何ら変わっていないのかはわからないが、とにかく高尾は不安だった。幸せだからこそ、終わりが来ることが怖い。

(……あれ?)

高尾は一度思考を止め、伏せていた顔を勢い良く上げた。慌てて壁に掛かるカレンダーを確認すれば、その表情は今までのものと一転晴れやかなものに変わる。思い返してみれば今日は金曜日だ。となれば当然、明日は土曜日である。そして高尾は土曜日は何も授業を履修していない。即ち、今日夜更かしをしたところで明日支障が出ることはないということになる。
これなら遅くまで緑間の帰りを待っても怒られないだろうと結論付けると、途端に高尾は落ち着いていられなくなった。会って特別話したいことがあるわけでは無いのにどうにも心が浮き立ってしまう。三年経っても変わらない、最早癖のようなものだ。

心の整理がつかないまま、かちゃりと家の鍵を回す音が耳に飛び込んでくる。高尾が既に就寝していると思っているのだろう、随分慎重な手つきだ。それを認識すると高尾は無性に緑間が愛しくなった。普段高尾の前では素っ気無く、本当に恋人同士かと疑いたくなるような言動を取る緑間だが、高尾の知らないところや見ていないところではこうも優しい。未だ自分の知らない優しさが溢れているのだろうと高尾は思う。きっと不器用な緑間なりの愛情表現で、それのお陰で高尾は自分が愛されているのだと感じることが出来るのだ。素直でない彼の為に気付いていない振りをするけれど。
高尾は忍び足で玄関に駆け寄り、扉が開くと同時に緑間に飛びついた。

「真ちゃん、お帰り!」
「――っ!?」

完全に不意を突かれたらしい緑間は衝撃で倒れそうになるのを既の所で踏み止まった。一先ず状況を判断しようと衝撃の正体を辿れば、恋人が自慢気な表情をして自分の肩に腕を回している。文句を言おうと口を開こうとして、言葉に詰まった。
何だか、こうしてちゃんと恋人の顔を見るのが久しく感じる。否、実際、久しいのだ。ここ最近は実験続きで遅くまで授業を受けた後、家には寄らずアルバイトへ直行し、帰ってくるのは大体深夜三時頃だった。朝も慌しく、高尾と顔を合わせ会話もするが、時間が無いからと簡単に済ませてしまっていた気がする。

「悪ぃ、びっくりした?」

腕を外す気配のない高尾は、口では軽く詫びを入れつつ少しも悪びれていない様子でへらりと笑ってみせた。 高校時代から高尾と付き合っていて、緑間は幾つかわかったことがある。高尾は周囲に対する気遣いがごく自然に出来、人好きのする性格だ。するりと人の心に入り込むくせに微塵も不快感を覚えさせない。ある種の才能であると緑間は思っている。その癖、自分が本心を他人に悟られること、弱い部分を曝け出すことを矢鱈と嫌う。高尾の本心を見抜くことは至難の業だ。恋人であるはずの緑間であっても、高尾が弱音を吐くところは長い付き合いの中で未だほんの数回しか見たことが無かった。
とは言え同棲を始めて以来ずっと一緒にいるのだ。高尾が弱さを見せることはなくても、本心で無い瞬間は少しだけ見抜けるようにはなった。そして現在、高尾のいつもと変わらないように見える笑顔に違和感を覚えた。理由を問われれば困ってしまう。勘というやつだ。長年付き添っている相棒として、恋人としての。

「何故こんな時間まで起きているのだよ、高尾」
「えー?明日休みだと思ってゲームやってたらこんな時間になっててさー」

オレも超びっくりした、と笑う高尾が嘘をついていることに気付くのは、高校時代の緑間には出来なかったことだ。緑間にとって高尾は嘘の上手い人間であるという認識が強い。と言っても、高尾のつく嘘は保身のために作り上げられた狡賢いものでなく、周りのために存在する所謂優しい嘘だ。誰にも気付かれる事無く役目を果たし消えていく。まるで初めから存在していなかったかのように。
こんな馬鹿げた話は誰にも言えないが、緑間は時々、いつか高尾自身も彼のつく嘘のように、人のために尽くしやがて消えてしまうのではないだろうかと不安になることがあった。何せ周囲への配慮がずば抜けて上手い高尾と緑間はほぼ正反対の位置にいる。緑間は周囲のことはお構いなし、自分のしたいように生きているし、それを悪いと思うことも無い。自分の人生に他人は関係無いのだ。不本意ながら高尾と出会って以来その考えは多少崩されてしまったが。
ともかく高尾が緑間の知らないところで他人の為に嘘をつき続け、やがていなくなってしまうことが怖い。そんなことは有り得ないと断言するのは高尾を知る人物には恐らく不可能だ。高尾にはお調子者である表の顔に隠されている何かがある。他の誰も知らない、もしかしたら高尾自身さえ知らない何かが。しかしそれを本人に告げれば考えすぎだと笑い飛ばすのだろう。

「……真ちゃん?なあ、怒ってる?」

黙ったままの緑間を不審に思ったのか、高尾は漸く腕を外すと緑間の顔を覗き込んだ。不安げな高尾の表情を見て、緑間は以前こうして高尾が出迎えてくれた時に怒ってしまったことを思い出す。緑間の気持ちとしては当然嬉しかったのだが、高尾は大学生として学校に通うだけでなく、帰宅後は二人分の家事をしなければならない。料理が出来ない緑間からすれば高尾にかかる負担が相当大きいのではないかと度々不安になる。自分が家事をすれば悲惨なことになるのは目に見えているため高尾に全て任せてしまっているが、高尾が疲れたなどと愚痴を零すところは未だ見たことがない。
あの時あまり無理をしてほしくないと素直に言えれば良かったのだが、生憎素直さは幼少の頃から持ち合わせていないため理由も告げず一方的に叱り付けてしまったのだ。

「いや、怒っているわけではない」
「そっか……?あ、真ちゃん腹減ってる?一応飯用意してあるけど」

言い方はぶっきら棒になってしまったが、緑間が怒っていないということはきちんと伝わったらしい。高尾は多少不思議そうに、けれど安堵したように笑うと緑間に問いかけた。 帰りが遅くなるからご飯は適当に済ませると告げた日であっても高尾はきっちり緑間の分の食事を用意し、遅くなったことに文句一つ言わず笑顔で出迎えてくれる。自分には到底真似できないことだと緑間はつくづく思う。高校の時から人気者だった恋人は大学に入ってもその人気さは健在らしく、度々友人から受け取ったお菓子や借りた漫画を持ち帰ってくる。きっと遊びの誘いも数え切れないほど受けているに違いない。それら全てを断ってまで自分を優先してくれる者など、生涯目の前のこの男しかいないだろう。大切にしたいと思う気持ちとは裏腹に自分の不器用さが高尾を傷付けているようで、緑間は居た堪れない気持ちになった。



(……真ちゃん、何か変なこと考えてんなー)

気難しい顔をして黙りこくる緑間を見て高尾は瞬時にそう理解した。緑間は本当に隠し事の出来ない人間だと思う。高尾は他人の感情の変化に敏感であることを自負しているが、それでなくとも緑間はわかりやすい。そんな緑間のことを空気が読めない奴だと咎める者もいたが、高尾は緑間のその正直な部分が好きだ。面倒事になるのは御免だとくだらない嘘をついてしまう高尾にとって、緑間の素直さは憧れるべきものであり長所の一つである。
ただ厄介なのは、不機嫌であることは理解できてもその原因が把握しきれないところだ。

「どうぞ召し上がれ、なのだよ」
「高尾……真似をするなと言っているだろう」

高尾が仏頂面のままの緑間をいつもの様に茶化してみてもその表情が晴れることはない。さてどうしたものかと考えながら、椅子に座った緑間の前に暖め直した料理たちを並べ終えると、緑間はいただきますと礼儀正しく両手を合わせた。
高尾は静かに緑間の向かい側の椅子に座り、その育ちの良さが窺える綺麗な食べ方をぼうっと眺めながら思考を張り巡らせる。緑間が気難しい性格であることは確かだが、流石に何の理由も無く不機嫌になったことは無い。必ずどこかに原因があるはずだ。
素直に本人に訊ねるのが一番早いということはわかっている。隠し事の出来ない恋人は有りの侭を教えてくれるだろう。それを高尾が躊躇うのは、不安があるからだ。もしも原因が自分、或いはこの生活にあったら、緑間に直接そう告げられてしまったら、今の同棲生活を終わりにするしかなくなってしまう。緑間の気持ちを無視した横暴な言い分だが、それだけはどうしても嫌だった。互いに別の大学に通っているのだから、同棲が終われば恋人という関係が終わるのも恐らく秒読みだろう。

「……高尾」

先に沈黙を破ったのは緑間の方だった。緑間を放って物思いに耽ってしまった事に気付いた高尾は慌てて顔を上げる。言い辛そうに視線を泳がす緑間を見て、聞きたくない、と咄嗟に思ってしまった。そんな高尾の意思に反して、緑間は真剣な表情で高尾を見据えると重たげな口をゆっくりと開く。

「お前は、この生活が辛くないのか」

――やっぱり。
緑間に問われた途端、高尾の心臓が強い痛みを訴え始めた。嫌だ、まだ終わりたくない、ずっとこのままでいたい。祈るように強く掌を握り締める。高尾は叫びだしたくなる衝動をグッと抑え付けて笑ってみせた。きっと誰の目から見ても今の自分は上手く笑えていないだろうが、こうでもしない限り、うっかり泣いてしまいそうだ。

「……なんで、そんなこと聞くの?真ちゃんは辛いわけ?」
「――っ違う、そういうわけではない」
「だったら何でだよ!」

バン、と大きな音が間近で響く。高尾が机を叩いたのだと緑間が理解するのと、高尾が顔色を変えたのはほぼ同時だった。

「……あ、ごめ……。ははっ、何熱くなってんだろーなオレ!」

普段は嘘の上手い筈の高尾が、すぐに作り物だと判る下手な笑顔を浮かべて謝罪をする。緑間は無性に腹が立った。いつだって自分の気持ちを押し殺して他人の気持ちを優先する高尾に、そして、高尾がそういう人間だと知っているにも関わらずそんな顔をさせてしまった自分自身に。
緑間は自分の言葉選びが下手な事は嫌というほど自覚している。その所為で昔から幾度も他人と対峙してきた。自分の言葉が他人にどう解釈されようと、実際に思ったことをそのまま言っているだけであるのだから関係ないと気にも留めていなかった。けれど、ただ一人、高尾にだけは誤解をされたくない、と強く思う。
それならば、下手なりにきちんと自分の考えを伝えなければならない。

「オレは、お前がそうやって気ばっかり遣うのが気に喰わん」
「真ちゃんたまにそれ言うけどさ、別に気なんか遣ってねぇって」
「遣っているだろう!ゲームをしていたなどと嘘をついてオレの帰りを待って、毎日食事の用意までして、その癖何でもないようなフリをして……お前はいつもそうだ」
「はあ!?だったら緑間だってそうだろ!毎日学校大変なのに遅くまでアルバイトまでして、大変なクセして愚痴も何にも言わねぇじゃん!」
「それは苦痛でないからなのだよ!お前との生活の為に嬉々として働いているのにどこに愚痴を言う必要がある?」
「それならオレだって家事なんて苦痛じゃねぇっての!緑間と暮らしてんのが嬉しくて……っ、へ?」

珍しく感情を露にして緑間に反論していた高尾は、しかし自身の言葉の終わらぬ内に間抜けな声を上げて硬直した。訝しげに顔を歪める緑間をぽかんと口を開いたままじっと見つめたかと思うと、忽ち高尾の顔が赤面していく。今日は恋人の珍しい一面が沢山見られるものだと呑気に考える緑間を他所に、高尾はとにかく混乱していた。
つい今しがた自分は恋人と久しくしていなかった喧嘩をしていたはずなのだが、何かとんでもないことを言われたような、そして自身も口走ったような気がする。今まで一度も緑間の口から聞いたことが無い言葉を危うく聞き流すところだった。今のは、幻聴だろうか。都合の良いように相手の言葉を脳内で変換してしまったのかもしれない。何せ緑間はとにかく頑固で意地っ張りで照れ屋で、高尾が今まで好きだの愛しているだのという類の言葉を貰ったことは指で数えられる程度だ。その緑間が、

「し、真ちゃん、オレとの生活の為に、"嬉々として"働いてんの……?」
「そう言っただろう。何故改めて言い直した?」
「いや、だって、間違ってんのかなって……」
「間違ってなどいない。事実なのだよ、高尾」

聞き間違いでは、ないらしい。

「真ちゃん、この生活、嫌じゃねぇの?疲れてない?まだ……オレと、暮らしてくれんの……?」
「馬鹿め、当然だろう。お前から離れる気など更々無い。例えお前が望んでも、だ」

そう言って緑間はフン、と鼻を鳴らした。同情やその場凌ぎで言っているようには見えない、至極当然だという表情。
言いたいこと、聞きたいことは、沢山あった。良い事も悪い事も含め、とにかく高尾には緑間と話すべきことがたくさんあった。けれど、もう十分だ。緑間のその言葉が聞けただけで、もう満足だった。自分たちの同棲生活は終わらない――この関係も。今の高尾にとってそれ以上に幸せなことなど、この世に何一つ存在しないのだ。
高尾は先程とは別の意味で泣き出しそうになるのをぐっと堪えて微笑んでみせる。ああ、いつも通りの、自分の好きな高尾の笑顔だと緑間は心底安堵した。高尾には笑顔がよく似合うことを一番よく知っているのは自分だと緑間は信じて疑わない。相棒であった頃から誰よりも近くでこの笑顔を見てきたのだ。そしてこの笑顔をこれからも傍でずっと見ていたいと思った、だから、同棲という道を選んだ。
緑間は自分より大分下の位置にある高尾の頭に柄にも無く手を置く。

「……オレも、似たようなことで不安になっていた。お前がこの生活に嫌気が差して愛想を尽かされないか、少しだけ危惧したのだよ」
「……じゃあ、真ちゃんも馬鹿だな。長年相棒やってきて、今更真ちゃんのこと放り出せるかっての」
「む……そう、だな」
「オレはさ、真ちゃんから離れたいなんて、一生望まねぇよ」
「……そうか」

だからずっと一緒にいて、なんて。安っぽい恋愛ドラマのような台詞は、口には出さなかった。


*

無駄なものが何一つ置かれていない簡素な寝室の中では、ダブルベッドが一際その存在を主張している。ダブルという名前は付いているものの、成人した男が二人で一緒に寝るには少々幅が足りず窮屈なものだ。それでもこのベッドにしようと二人で決めたのは、金銭面を考慮したのは勿論のこと――隙間など必要ないだろうと、互いに思ってのことだった。久しぶりに二人揃って足を踏み入れた寝室は、心なしか一人で入る時よりも暖かく感じられた。高尾は隣に緑間がいる幸せを噛み締めて、けれどそのことを悟られないようにベッドの中へと飛び込む。埃が舞うだろうと小言を零しながらも緑間の口元は綻んでいた。

「うげっ、もー三時半じゃん」
「ああ、早く寝るぞ、高尾。いくら明日予定が無いと言え、夜更かしは――」

携帯で時刻を確認した高尾は時の経過の早さに眉を顰め、続いて緑間が就寝を促す。しかし緑間が全てを言い切る前に、高尾は右手の人指し指をぴんと伸ばし緑間の唇に押し当てた。伝わるふにゅりと柔らかい感覚に、笑みを浮かべる高尾とは対照的に不快そうな顔をした緑間が高尾の手を取って唇から離す。

「何の真似だ、高尾」
「……ほんっと、鈍感だよなあ、緑間」

馬鹿にするように溜息を吐かれ(と言うより実際馬鹿にしたのだが)、腹を立てた緑間が文句を言おうと口を開くより速く高尾が身を乗り出した。ついさっき指が押し当てられたそこに、今度は自身の唇を重ねる。その瞬間、緑間が驚いて息を呑むのが分かった。本当に何も理解していなかったのかと呆れながら、そう言えばこの男は昔からそっちの方面には滅法疎かったことを思い出す。高校生とは思えない初心さで、異性と付き合ったことのなかったあの緑間が今こうして男である自分の恋人を続けているのだから、人生何があるかわからない。高尾さえ予想していなかった現状だが、不満など何も無い。自分たちの選んだ道は、何も間違っていない。

「……シよっか、真ちゃん」
「なっ……」

いくら鈍い緑間でも、さすがに今のキスの後では理解したらしい。長い睫毛に縁取られた目が見開かれ、面白いくらいに顔が赤く染まる。恋人同士がベッドの上ですることなど、一つだけだ。

「明日は土曜日、だろ?」

悪戯っぽく笑った高尾が、緑間に拒否権は無いと言いたげにもう一度口付ける。
もしかすると高尾は、初めからこうするつもりだったのかもしれない。自分が同棲生活を止めにすると言っても、きっと、最後だけは許して欲しいと同じ事を請っていただろう。幸せそうに唇を重ねてくる高尾を見て、緑間の中に愛しい気持ちが溢れ出した。
文句は山程あるのだが、それは言葉でなく直接教え込んでやるとしよう。そう決意した緑間は、高尾の身体を軽々と反転させ、その上に覆い被さった。突然の事に驚いたらしく何度か目を瞬かせた高尾は、数瞬の間をおいて、いいね、と強がって笑ってみせる。どこまでも強情な恋人の髪を梳いてやると、高尾はくすぐったそうに身じろいだ。

「明日は土曜日だから、な」

覚悟をしろよと囁いて、緑間も笑い返してやった。
ベッドの上の二つの影は、大きさは違えども、確かにしっかりと重なり合っていた。