幸せの空間


枕で下敷きになっていた携帯から、アラーム微かに聞こえる。まだ少し重たい目を開けてから視界に広がった天井は見慣れない風景だ。高尾は(ここは何処だったっけ)と考えてからすぐに思い出した。そうだ、見慣れた自室の天井はもうない。今はもう一人だけの寝室ではないのだ。

 むくりと起き上がりベッドに座ったまま自分の隣をみると、誰もいない。一人だけの寝室ではないと言ったものの、どうやらもう一人の寝室利用者は既に活動を開始しているようだ。シーツはまだ微かに温もりを残しているから、そんなに時間は経っていないはずだ。

 布団の中に居座ったままでそっと耳を済ませると、なにやらガタゴトと暴れる音が台所から聞こえてくる。台所と呼べるほどのものではない些細で小さなキッチンだけれど、まだ破損させたくはない!そう思った高尾は慌ててベッドから飛び出した。フローリングがまだ少し冷たくて、靴下を履きたいけれど今はそれよりも音のなる方へと急がなければ。


「おはよう!!なに暴れてんだ!」
「起きたのか、おはよう」
 慌ててはいるものの律儀に挨拶をした高尾におはようと返したのは、大きさの違うフライパンを二つ持ち、妙なポーズを構えているかのように見える緑間だった。
「…うん、起きた。…で、なにやってんの真ちゃん」
「昨日、やっと部屋がだいたい片付いただろう。色々とお前に頼りっぱなしだったからな」
「うん、で?」
「詫びに朝食を作ってやろうかと思ったのだよ」

 朝食。確かにこの部屋に引越しをしてからまだ一度も食事をまともに作っていなかったな、と高尾は思った。

 この春から大学生となる緑間と高尾は、いわゆる同棲というものを始めていた。表向きはルームシェア、でも本当は甘酸っぱい同棲生活。…なんて、フライパンをまるで武器のように持っている緑間を見て甘酸っぱいとは言い難いけれど。

 春休みの間に済まそうと思い立った早めの引越しが、ようやく昨日落ち着いたのだ。どこに何を入れたのかも分からなくなりそうな段ボール箱。そのガムテープを緑間が爪で捲ろうとするものだから「爪、痛めるって」と思わず言ってしまった。けれどもう、彼の指にあれほどまで繊細なタッチを要求することはなくなったのだった。
高校最後のWCが終わり進路の話をした時、大学では学業に専念すると言ったあの時の緑間の眼には迷いが無かったことを確かに覚えている。でも寂しいのは嘘ではないから、たまにはバスけしに行こうなと言った高尾に、緑間は優しく笑ったのはほんの数か月前のことだ。

 そして、あぁだこうだと言いながらも本やらCDやら日常生活での必需品ではないものがたくさん入っていた段ボール箱はすべて潰し終わった。あとは生活に必要なものを徐々に増やしていけば良い。自分の好みの家具や雑貨を置く、新居に移り住む醍醐味とでも言おうか。緑間と高尾、趣味が合わなさそうなのは目に見えているけれど今は気にしないでおこう。

「…で、何を作ろうと思ったわけ」
「心配するな、そんな複雑な料理は出来ん。目玉焼きだ」
「ほー…目玉焼きを侮るなかれ、緑間さんよ」
「それぐらい俺にも出来るのだよ」

 自信ありげに言った緑間は、テフロン加工が施されている小さめのフライパンに薄いロースハムを乗せて焼いていく。ベーコンなんて良いものは使わない、これからのことも考えてしっかりと節約だ。というよりもまだ、設置されたばかりの小さい冷蔵庫にはほとんど何も入っていないのが理由でもある。熱したフライパンに油をほんの少しだけたらして、強火でハムを焼く緑間は、視線によって穴だらけにな
りそうなほどにハムを見つめている。

「…なぁ真ちゃん、ハムって生でも食えんじゃね?」
「………か、カリカリしている方がいいだろう」
「うん、そーだね…」

 絶対火の通り具合気にしてたくせに何言ってんだこいつ。高尾は少しバカにしつつも、目玉焼き…否、ハムと格闘する緑間をじっと見つめた。きっと一通り一緒に料理をすれば、何度目かには出来るようになるのだろう、緑間はそこまで絶望的な不器用なわけではない。しかし、高尾自身も本を見なければ料理など出来る訳ではない。緑間のいない時に密かに特訓でもしようかと考えているぐらいだ。料理ぐらい、緑間に勝てたほうがいい。何より胃袋をつかんでやらなければ。高尾は緑間と一緒になってハムを見つめながらそんなことを考えた。

 端の方がカリカリになってきたハムの上に、いよいよ主役の登場である。フライパンの上に卵を割る、それだけの動作だけれど、緑間は真っ直ぐすぎる視線を絶やすことなくフライパンに注いでいる。そして、まるで割れ物を使うような手つき(確かに割れ物と言えば割れ物だが)でコンコンと卵の殻にヒビを入れてから、フライパンめがけて卵を落とし入れた。

「あっ!!」

 橙の球体が形を少し歪み変え落下していく。高尾の口からは綺麗に割れたね。という言葉とは違い、あっ!!!と、驚きの言葉が発せられた。緑間の手によって落とされた卵。今はもうフライパンの上でジュージューと音を立てているが、黄身が盛大に潰れてしまっている。


「………」
 言葉もでない緑間は、それを隠すようにフライパンに蓋をした。正直、透明な蓋では何も隠せていない。
「…いや、当たり前っしょ?上から落としすぎなんだよ」
「…上からでは、ダメなのか」
「あのね真ちゃん、卵は繊細なの!まるで女性のように扱わないといけないの!」
「高尾お前、女性をそんな風に扱ったことがあるのか」
 知らなかった、と目を見開かせた緑間に、高尾は軽くため息をついた。
「ねーよ!!例えばの話だよ!」
「そうか、一瞬焦ったのだよ」
「真ちゃん一筋だから誤解すんなよ」
「あぁ、わかっている」
「て、そんな話してんじゃねーの、目玉焼きだよ」

 脱線する話を若干楽しんでいるようにも見えたが、高尾がフライパンのフタを開けてみると、割れた卵がちょうどトロリと半熟に焼けていた。

「なぁ真ちゃん目玉焼き作ったの、これが初めて?」
 目玉焼きとは呼べない、卵とハムをただ一緒に焼いたようなものを見つめながら高尾が言った。この出来栄えならば聞かなくても答えは分かっているけれど、一度聞いてみよう。
「あぁ、そうだ」
「んじゃ、俺がこれ食うから、真ちゃん次の焼けよ」
「?次はうまく焼けるかもしれないのだよ。これは俺が食べる」
「いやいや、いーの!」
 頑なにこれが良いと言う高尾に緑間は小さく首を傾げた。
「…どうせなら綺麗な方が良いだろう」
「あのねー、真ちゃんはさ、これから俺が初めて作ったもん、いっぱい食ってくんでしょ」
「…?あぁ、まぁ…そうだろうな」
「真ちゃんばっかズリィよ、真ちゃんの初めては俺が食べたい」
 だからこの目玉焼きは俺のな。すでにだいぶ硬くなっているようにも見えるハムと卵。それに嬉しそうに塩コショウを振る高尾を見て、緑間はなんだかくすぐったいような気持になった。
「………フン、好きにするのだよ」

 へへへ、と笑う高尾から背を向けるように、緑間は冷蔵庫から二つ目の卵を取り出した。昨日近くのスーパーで買った、本当に必要最低限の食品のうちの一つが消費されていく。「ついでにハジメテも奪ってやろっか?」と言いながら高尾が緑間の尻を触ると、ふざけるなと拳骨を食らわされた。


 二回目の目玉焼きは、割れずに綺麗に焼けていた。





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




 香ばしく焼いてしまえばハムもベーコンになるのだよ。なんて意味の分からないことを言う緑間を散々笑った高尾は、至極嬉しそうに皿洗いをしていた。
 これから二人で暮らしていくとなると、家事や洗濯もちろん学業と、何をするにも忙しくもなるだろう。しかし煩わしく感じそうな皿洗いすらも、緑間と自分の同棲生活の一部と考えれば楽しくいられそうだ。なんて、高尾のこんな考えは「カリカリハムはベーコンと一緒論」と同じぐらい訳が分からないように思えるかもしれない。けれど良いのだ、想像しても幸せな風景しか浮かばないのだからしょうがない。



「ねぇ真ちゃん、今日は買い物いこう」
 自ら作った目玉焼きを完食した緑間は、ようやく片付いた本棚の奥から文庫本を一冊、取り出していた。
「…そうだな」
「俺の話、ちゃんと聞いてますー?」
「聞いているのだよ、何を買いに行くのだ」
「何をって…いろいろあるでしょうが」

 まだ荷物の少ないこの部屋に、揃えるべきものはたくさんある。まずはそうだ、エプロンを買おう。皿を洗っているとどうしても腹の部分が濡れてしまう。そして何よりエプロンをすれば料理をしているという雰囲気が出る。こういったように形から入るのは、緑間と高尾の似ている所だ。

「……スリッパを置く棚が欲しい」
 どんなものを買おうかウキウキと思考を巡らせている高尾を横目に、緑間が囁いた。
「棚?」
「おは朝関連で溜まったスリッパがたくさんあるのだよ」
「あ〜そういやあったなぁ」
「それを収納するスペースが欲しい」
 物への物欲というものがあまりないのだろうか。買い物に行くというのに、新しいものよりも収納スペースを欲しがる緑間は、ラッキーアイテム以外には興味が薄いらしい。
「スリッパかー…そうだ真ちゃん、お揃いの、買おうよ」
「?俺が言っているのはスペースの話だ」
「いーじゃん、ボックスも探すけど…お揃いのスリッパってよくない?」

 ほら、外から帰ってきて俺と真ちゃんのスリッパが並んでたら、なんかほっこりするっしょ?高尾がそう言っても緑間は何も答えなかったけれど、満更でもない表情をしていた。揃いの物が増えていくということは、それだけ互いを思い出すということだ。同棲しているとはいえ、四六時中一緒にいるわけではないことは分かっている。そんな時、自分と色違 いのスリッパを履いている相手を思い浮かべれば少しは温かい気持ちにもなるだろう。

まだ読み始めたばかりだっただろう本を閉じた緑間は、そそくさと自室に入っていった。かと思えばすぐに出てきたのだが、すでにしっかりと外出用の服に着替えていた。

「本屋にも行くのだよ」
「ちょっと待って、俺まだ洗いもんしてんの」
「ならば急げ、待つ」
「いやいや待つって態度じゃねーかんな?」

 緑間は腕組みをしながらシンクに向かっている高尾の後ろ姿を眺めた。そしてふと、これからこの後姿を見る毎日が続いていくのか、と思った。自分だけの部屋ではなく、高尾がいる空間。それだけでなんとも騒がしく、明るく、温かい空間になるのだから全く不思議なものだ。  皿洗いを終えた高尾にタオルを手渡すと、嬉しそうな顔で受け取った。タオルを渡しただけなのに、なぜそんなにも上機嫌なのだろう。口には出さずに心の中で思っていると、「真ちゃんがいるからだよ」と高尾が言った。人の心をよむなと慌てて言い返そうとしたけれど、どうやら緑間も高尾がいれば上機嫌らしい。言い返そうと開いた口をそっと閉じた。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




 平日とはいえ世間はもう春休みで、大型のショッピングモールも中々の混み具合だ。しかし目立つ髪色とすらりとした身長の緑間を見失うことはない。ましてや高尾の目があるのだから、フラフラと店内をうろつく緑間に苦労することもない。苦労は確かにないのだが、行く先々でいろいろな商品を手に取りつつ、緑間と高尾は無言で見つめった。

「気付いてはいたけどさ」
「あぁ」
「俺と真ちゃん、趣味あわねーよな」
「あぁ、そうだな」

 今高尾が手に取っているマグカップは無地の白色のマグカップで、緑間が手にしているのはオレンジの丸みを帯びた形をしたマグカップだ。どうやらペアのマグカップで、合わせると一つの絵柄が出来るもののようだ。マグカップなど、今急いで買うべきものではないことも分っているのだが、新居(と呼べるほどのものではないが)に合わせて新しいものを買いたくなってしまう。それは緑間も高尾も同じようだ。

「白が無難じゃねーの?こういうのって」
「俺はお前がその性格でシンプルな雑貨を選ぶことが驚きなのだよ」
「性格ってなに、どーゆーこと」
「?単純に明るいということだが」
「あー…そー、ね」
 騒がしいやら落ち着きがないという返答が来ると思っていたものだから、高尾は思わず緑間から顔をそむけた。そしてまさか言えるわけがない、白くて落ち着いた色の方が緑間に似合うと思ってしまっただなんて。
「てか、真ちゃんこそさー、んな可愛いの選ぶのね」
「……」
「ねー?」
「…橙色は、嫌いではない」
 緑間は、手にしているマグカップと高尾の顔を交互に見た。そんな緑間の動作を見せられた高尾は、まさかそのオレンジは自分のことを言われているのか?と自意識過剰な思考を働かせたが、それは違うだろう!!と、ぶんぶんと頭を揺らした。
「まぁ秀徳カラーだもんな〜オレンジな」
「…それもあるが」
「うん?」
「橙はお前の色だ」
「…え、」
 今度は立場が逆転、緑間が高尾から目をそむけて言った。
「橙とオレンジの定義は少し違うが、良く似ているのだよ。暖色系の色は温かくてお前のようだ」
「……あー…うん、照れるからやめよ?」

 先ほどからの会話からも読み取れるが、緑間の雰囲気は随分と柔らかくなった。昔から思っていることはずばりと口に出すタイプだったが、こんな風に露骨に好意を示す発言をするような人ではなかった。それなのに高尾のことを、橙色のように温かく優しいと言う。緑間をこんな風に変えたのはきっと自分だ、という自信を抱いてしまうこの瞬間が、高尾は昔から好きだった。

 少し歯がゆくなるほど甘い討論の末に、結局購入したのは真っ白なマグカップ。緑とオレンジの文字で、それぞれのイニシャルが入ったものを選んだ。早くこれでしるこが飲みたいものだなと緑間が言ったけれど、洒落たマグカップでしるこを飲もうとするのはやめろと高尾は内心思った。が、しかし。マグカップで優雅にしるこを啜る緑間があまりにも容易に想像できてしまったものだから、不覚にも人前でブフッと大きく吹き出してしまった。


 休日のショッピングモールの人の多さは少しうんざりするほどのものがある。気を抜いていると知らない人と肩がぶつかるし、少し離れた所には迷子らしき子供と話をしている従業員がいるし、自分たちと同じように恋人同士で雑貨を見に来ている人たちもいる。周りからしてみれば自分たちは恋人同士には見えないだろうけれど、自己満足だからこれで良い。マグカップが入った手提げの紙袋をぎゅっと握りしめていた緑間は、そんな風に思った。そしてふと後ろを歩く高尾に目をやると、高尾はなんともだらしない顔の緩みを隠すように俯きがちに歩いていた。

「…前を見て歩け、転ぶぞ」
「んー…うん、分かってる分かってる」
「何をそんなにニヤニヤしているのだよ」
「ば…っニヤニヤとかして…いや、してるか」
「あぁ、してるな」
「……だってさー…楽しくね?嬉しいじゃん、こーやって同じモン増えてって、真ちゃんと俺が、ますますセットになんの」
 いつもの軽い口調ではなく、伏し目がちにそっと口にした高尾に、緑間は思わず見とれた。
「……一生ニヤニヤしているといいのだよ」
「ひっでーなー、一緒にニヤニヤしててもいいのだよ?」

 一緒にニヤニヤする気は更々ないが、そんな高尾を見ているのは成程悪くはない。それが一人で作られた喜びから生まれるものではなく、二人で作り上げた空間から生まれる笑顔なら、きっといつまでも見ていたい。自分たち以外の他人から見て、この関係が恋人同士に見えなかろうがなんだろうが、高尾が嬉しそうにしている。その事実が緑間にとっては何よりも嬉しかった。

「…あ、真ちゃん真ちゃん」

 ぐいぐいと緑間の服を引っ張る高尾の視線の先には、数多くの種類の入浴剤が並んでいる。色とりどりのパッケージに入った香りのするもの、旅館の温泉の湯をイメージしたもの、混ぜると泡が出るもの。こんなに種類があるのかと眺めつつ、高尾はくすくすと肩を揺らし笑い出した。

「どうしたのだよ」
「ぶふ…く、そういや、ラッキーアイテム…ふっ」
「……あぁ」
「入浴剤の時、あったよな」

 あれは傑作だった、と語り始める高尾に緑間はため息を吐いた。あの思い出は、自分でも思い出すと少々恥ずかしいものがある。
 高校二年の冬、ある日の蟹座のラッキーアイテムは「乳白色の入浴剤」だった。乳白色の入浴剤は家にあるか?!と前日に電話がかかってきたのを今でも覚えている。乳白色、という指定があったことに少し焦っていたようで、あの時の緑間は『乳白色』というワードを必要以上に連呼していた。思い出しても不思議ないたずら電話のようにしか思えないものである。
運よく高尾の家には乳白色の入浴剤が置いてあった。明日もって行くと伝えたはずなのに、緑間は数十分後高尾の家までわざわざ入浴剤を受け取りに来たのだ。そして緑間は、入浴剤とはお湯に溶かすものなのだよ、と言い残して帰って行った。次の日の朝、緑間は迎えに現れた高尾に「これで完璧だ」と無駄に大きな魔法瓶を見せ、眩しいぐらいに満足げな表情をしていた。

「ぶは…っ、ふ、はは!!」
「…笑いすぎなのだよ」
「だって、風呂の湯…っす、すいとう…っ」
「あの魔法瓶は悪くない、あの頃の俺が悪かったのだよ」
 緑間は、入浴剤そのものを持ち歩くのではなく、お湯に溶かし魔法瓶に入れていた。あの時の緑間の奇行は思い出しても笑いが止まらない。確かに本来の使用目的に沿えば正しいのかもしれないが、お湯にしっかりと溶かし魔法瓶に入れて持ち運ぶその発想はいったいどこからくるのか、尊敬すらしてしまうというものだ。
「悪いとかじゃなくて…っいや、てか悪いとか思ってたのかよ」
「少なくともバカだったと思っている」
「バ…っ!若気の至りってか!」

 げらげらと笑う高尾を、緑間はうるさいと一喝した。
こんな風に馬鹿で愉快な思い出を、思い出せば思い出すほど、ずっと一緒にいた、ずっと近くにいた。楽しいことも悲しいことも、面白いことも悔しいことも、苦しいことも嬉しいことも。脳裏に浮かび蘇る記憶はあまりにも鮮明すぎて、時折過去だということに違和感すら覚えてしまう。今はこんなにはっきりと覚えていても、思い出は薄れて行くに違いない。でも、そんな記憶に新しく塗り重ねられていく思い出は、きっともっと幸せなのだろう。

 懐かしさのあまり乳白色の入浴剤をカゴにいくつか入れると、高尾はついでに!と、二つ三つ変わった入浴剤を購入しようと言いだした。狭い風呂にはこれぐらいの楽しみがないと。そう言った高尾に、緑間は何も言い返さずにカゴを持ち続けている。
ちょっとトイレに行ってくると店を出た高尾の後ろ姿を見ながら緑間は、財布の紐は高尾に握られそうだなと静かに思った。そういった会話はしていないけれど、きっと高尾のことだ。買い物は自分よりもしっかりと要領よくこなしてくれるだろう。自分はというと、帰りに牛乳を買って来いと言われたとして、どの牛乳を買えばいいのか事細かに質問のメールを送ってしまうだろう。そんなことを考えながら、緑間は気になった入浴剤をもう一つだけカゴに入れ、店内をぐるぐると歩き回った。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





 重い荷物を玄関に置き靴を脱ごうと屈むと、部屋には夕焼けの光が差し込んでいた。眩しいけれど、今朝に出た自分たちの家とはどこか違う気がした。けれど、この夕焼けには今日購入した淡い緑色のカーテンが良く合いそうだ。淡くて優しい緑色のカーテンは、高尾がどうしてもと言って聞かなかった。

 明日からちゃんと飯作るから、と言いながら高尾はスーパーで買った弁当を机に並べた。小さな机に並ぶ二つの弁当は特別良いものではないのに、どうしてだろうすごくおいしそうに見えてくる。いただきます、と言葉を交わして、ごちそうさま、と手を合わせ美味しかったねと会話する。そんな『普通のこと』が毎日毎日繰り返されていって、きっと何か月か経てば緑間の焼く目玉焼きは今日と違って上達したものになっていくのだろう。

「…疲れたのだよ」
「ダッセーな真ちゃん、もう現役時代のスタミナは消えたってか」
「バカにするな、スポーツと買い物は違うのだよ」
「んまぁ結構な時間歩いたもんなー…」
「しかしいい買い物ができたのは確かだな」
「うん、真ちゃん色のカーテンとかね」
 言葉にはしていなかったものの、やはり緑色のカーテンは緑間を意識していたようだ。あんなにふんわりとした緑色に自分を例えられて、緑間は何とも言えない気持ちになった。
「…そうだな」
「照れんなって〜…そうだなまぁ疲れたしとりあえず、風呂の湯溜めっか」

 帰宅するなり風呂場に向かう高尾の後ろ姿を眺める。今日は高尾の後ろ姿を良く見るような気がするな、と思いつつ緑間は高尾を呼び止めた。振り返った高尾の後ろから差し込む光と、視界に広がる部屋の風景。これから築き上げられていく空間は、理由も根拠もないけれど、温かいものになる予感がした。

「なに、どしたの」

 緑間はずい、と二つの袋を差し出した。受け取れと手渡された袋の中を覗くと、包装された二つのプレゼントが入っていて、高尾は思わず目を丸くして変な声を上げてしまった。

「えっ?なにこれ」
「重たい方から開けるのだよ」
「え、え?あ、うん」

 二つのプレゼントのうち、綺麗にラッピングされた箱の包装紙を、そっと捲って箱を開けると、見覚えのあるオレンジ色が目に入った。

「…さっきのマグカップじゃん」
「お前がカーテンを譲らなかったのだ、俺はそれだ」
「…そんなにセットのが、良かったの?」

 スリッパも、スリッパを直す棚も、新しい本も、文庫本を並べやすいサイズの本棚も。だいたいどんなものでもいいと言った緑間が、自分に秘密にしてまで購入したこのマグカップ。オレンジ色が高尾らしいと言っていた。二つ合わせるとハートを抱えたクマの絵が合わさるようになっている。セットが良かったのと聞くと、俺とセットになるのが嬉しいのはお前の方だろうときっぱり返された。それは確かにそうなのだけれど、全く素直じゃないところは昔から変わらない。

 そもそも何時の間に買っていたのか、尋ねると緑間は「お前がトイレに行っている間に」と答えた。確かにトイレは混んでいて時間がかかっていたけれど、サプライズのような行為は苦手そうな緑間なのに、全く気付かなかった。中々のやり手だ、と高尾は思わず小さく数回拍手をした。

「ありがと真ちゃん。これでしるこ、飲もうな」
 これで家の小さな食器棚に置くマグカップが、二種類に増えた。自分はきっとしるこは飲まないけれど、緑間のために時間をかけてしるこを作ってやろうという気にはなってきた。
「…どちらかは、コーヒー用にする」
「コーヒー好きじゃないじゃん?」
「お前が毎日淹れれば、飲むのだよ」
「…あらまぁ」

 これは暗に、毎日一緒にコーヒーを飲む時間を作ろうということなのだろうか。長年付き合うと、こうも簡単に偏屈な男の翻訳が出来るようになるのだ、全く人間に秘められた適応能力というものは素晴らしい。

「こっちもあけていい?」

 残りの軽いほうのプレゼントを開けても良いかと尋ねると、緑間は少し神妙な面持ちで頷いた。何かそれほどまでに重要なものを購入したというのだろうか。
そんな緑間につられて恐る恐る包装を破ると、中身は落ちついた橙色のストライプが入った白のエプロンだった。

「……エプロン」
「…エプロンだ」
「真ちゃん、んな怖ぇ顔してるから、何かと思った」
「…エプロンなのだよ」
「いや、分かってる。てかさ、俺、言ったっけ」

 高尾は手にしたエプロンを眺め、今朝のことを思い出した。食器を洗っている最中に、服が濡れるから今日の買い物ではエプロンを買おうと思っていたことを。そしてそれを今の今まですっかり忘れていて、結局エプロンは購入していない。代わりに緑間がこうしてプレゼントをしてくれた、どこまでも橙色にこだわったこのエプロン。そしてもう一度朝のことを思い出す。自分はエプロンが欲しいなど、緑間に言っていない。

「…なんでエプロン欲しいってわかったの」
「濡れた服を気にしていただろう」
「…腹冷てぇなって思ってただけかもしんないじゃん」
「バカにするな、俺だってお前の考えていることは分かるのだよ」
 高尾が緑間の感情や動作を読み取ることに長けているように、緑間もまたそうなのだと。まるでそう言っているように聞こえた。
「…自信たっぷり過ぎっしょ」

 …あぁもう、ずるい。結局こうして良いところは持っていくのだから、ずるくて、本当に、…すきだと思う。

「…で、なんでまだそんな緊張した顔してんの」

 エプロンのサプライズは成功だろ?と言えば、緑間の大きな手が高尾の頬に触れた。学生の頃から変わらない、こうやって頬を撫でられるのが高尾は好きだった。緑間にこれが好きだと言ったことはなかったけれど、彼はいつも優しく触れてくる。あぁそうか、今に始まったことじゃない。確かに緑間は高尾の考えていることを、いつだって分かっていた。





「…そのエプロンで、毎日俺に食事を作ってほしい」

 瞬きをした瞬間に、早口で言った緑間のセリフが耳に飛び込んできた。

「…うん?」
「毎日というのは言葉のあやで、もちろん疲れている時や忙しい時は作らなくても構わない、むしろ俺がまた目玉焼きに挑戦しても良いのだよ」
「目玉焼き?」
「そうだ、目玉焼きだ」

 目玉焼き以外も作れるようになってよ。そう言いそうになったけれど、それは後に回そう。そして高尾は考えた。もしかして緑間は、「毎日俺に味噌汁を作ってください」そんなニュアンスで言っているのだろうか。

「…毎日、目玉焼きでもいいの?」
「ま、毎日?…仕方がない、お前がそんなに目玉焼きが好きならば」

 うっかり毎日三食、卵とハムになりそうな展開だ。高尾は思わず笑いが込み上げ噴出した。文句を言いつつも目玉焼きに律儀に「美味い」と言葉を添えてくれそうな緑間を想像して、心がほっと温かくなっていくのが分かる。

「…なー真ちゃん、それさ、プロポーズ?」
「いや、プロポーズはまた別の機会にしようと考えているが、とりあえず何かこの心境を言葉にしようと思ったのだよ」

 まさかここでプロポーズの予告をされると思わなかった。目を丸くさせてもう一度大きく噴出した高尾に、緑間はしまったと眉を八の字にした。全く不器用なのか、器用なのか。真っ直ぐなのか、策略家なのか。つかめない男である。

「…毎日俺の作った飯、食ってくれんの?」
「当たり前なのだよ、たとえ毎日目玉焼きでもな」

 フフンと得意げな顔をして言った緑間に、目玉焼きは真ちゃんの担当にしよう、と高尾は言った。そんで俺がコーヒー淹れて食パン焼いて、暇な日にはしるこ作んの。完璧だろ?と、嬉しそうに高尾は笑った。

 差し込む夕焼けに映し出された緑間と高尾の影が、そっと重なる。それはもう甘くて優しい幸せの空間で。触れ合う唇の柔らかさはまるで、二人のこれからを包むこの部屋のようだった。





 END.