寂しがり屋の箱の中


「絶対この部屋にする!」

 狭い事務所に設置された応接席で、高尾はそう言って一枚の紙を指差した。声が大きい、と高尾を咎めながら、緑間はその物件の条件を見て眉を寄せる。高尾が指を差した紙と、隣に並べられた紙を見比べていや、と横に首を振った。

「これだとお前の大学まで少し遠いだろう。さっき見てきた限り、部屋の間取りや設備もあまり変わらないし、もう少しお互いの大学の中間地点にあるこっちの方が、」
「俺実家から自転車持って行くし大丈夫だって! ね、ここにしよう真ちゃん! 俺絶対ここがいい!」

 ていうかもうここじゃないと嫌だ、と珍しくわがままを言う高尾に緑間は目を見張る。いつもはある程度すればしぶしぶながらも身を引く高尾だが、今回は絶対に引く気がないとでもいうように緑間をまっすぐ見つめている。緑間は何故ここまでこの部屋に、ともう一度その部屋の条件を見るが、特に他の物件と特別違う、ということもない。緑間が良いと言った物件と比べても設備はほとんど変わらないし、家賃だって共益費込みで見れば差はほとんどない。先ほど担当の人に連れられて見てきた感じ、ほぼ雰囲気などに関してもどちらがどうなどということもなかった。むしろ、高尾の大学から少し遠くなるため、高尾にとっても緑間が提案した物件の方が都合が良いはずだ。なのに、高尾は頑なにもう一方の物件が良いと言う。緑間は理由がわからずにさらに首を傾げた。
 理由がわからないために緑間が賛同しかねていると、2人の対応をしていた不動産屋の女性が、2人の間に助け船を出した。

「特にこの2つに差はありませんが、こちらのお友達の方が良いと言っているマンションは、24時間営業のスーパーが近いですね」

 すごい助かります、と高尾が目を輝かせる。
 一緒に暮らし始めれば、料理が苦手な緑間の為、料理はほとんど高尾の担当になるだろうとは事前にもう2人の間で話してある。とは言っても、緑間は作ってもらう立場。高尾が納得した上での立場であっても料理の担当は高尾だし、それに伴って食材の買い物に行くのも高尾が必然的に多くなるだろうことを考えれば、高尾の意見を無視するわけにはいかなかった。緑間はしばし黙った後、降参だ、とでも言うように大きく溜息を吐いた。
 ありがとうございます、と担当していた女性と高尾の嬉しそうなありがとう、の声が重なった。

「真ちゃん、怒ってる?」
「何をだ」

 帰り道、高尾が突然申し訳なさそうに顔を覗き込んできた。緑間が首を傾げると、高尾はいやー、と俯く。マフラーに口元が埋まり、その隙間から白い息が漏れた。

「さっき、結構強引に部屋決めちゃったし」

 わがまま言っちゃったし、と高尾は苦笑する。緑間はああ、と前に向き直ると、別に不満はない、と短く答えた。緑間は、高校3年間で随分に高尾に甘くなった。そんなつもりはまったくないはずなのだが、時折自分も大概だな、と思うほどには自覚はある。しかしそれを素直に認められないのが緑間だった。
 そっか、と高尾が笑ったのを見て、随分機嫌が良さそうだな、と緑間は思う。理由はと言えば、先ほどの部屋のことだとしか言いようがない。それからふと先程は聞けなかった理由が気になって、緑間は口を開いた。

「どうしてあそこまであの部屋にこだわるのだよ?」

 高尾はその言葉に一瞬呆けたように緑間を見上げた後、にかりと嬉しそうに笑って緑間の右側に回り込んだ。そして緑間の右隣に並ぶと、どーん、と声に出しながら緑間に肩をぶつける。緑間は突然の衝撃に少し上半身を傾けると、いきなりなんなのだよ!と高尾に怒鳴った。そんなことも気にせず、高尾は何が楽しいのか笑いながらはあ、と一度大きく息を吐いて白い息を出して見せた。

「610号室」
「・・・さっき決めた部屋か」
「うんっ。そう!」

 嬉しそうに頷いて顔を上げた高尾の鼻が赤くなっていて、緑間は思わず伸びそうになった手をぐっとコートのポケットの中で握りしめる。何をこんなに嬉しそうにしているのかはわからないが、この笑顔の高尾は嫌いではない。
 緑間は誤魔化すように高尾を見下ろして、続きを視線だけで促す。高尾はそんな緑間の気持ちがわかっているかとでもいうように笑うなよ、と一言置いて、それでもゆるゆると緩む頬を隠さず言った。

「6と10。お前と俺の背番号じゃん」

 本当にそれだけなんだけどね、と高尾の言葉に緑間は驚いて思わず足を止めた。驚きで見開いた目で追っていた高尾は2,3歩前で同じように止まると、白い息を吐き出して振り返り、笑う。



「運命感じちゃったのだよ!」



 なーんてな、と耳まで真っ赤にして笑う高尾に、緑間はつられるように真っ赤になって馬鹿め、と小さく唸るように言った。恥ずかしい奴だ。それでいてなんて愛しいんだろう。緑間は途端に愛着の湧いた先ほどの部屋を思い浮かべた。これからあの部屋は、自分たちが帰る唯一の場所であり、そしてかけがえのない場所になる。 
 部屋は、いわば箱のようなものだ。まだ何もない空箱に、大切なものを、時間を、人との繋がりを時間をかけてしまっていく。そうすれば、その箱はいつしかかけがえのないものになる。時にはなんでもないものが箱にしまったことで思わぬ価値を見出すこともあるだろう。つまり、どんな空箱だったとしても、要はその箱の持ち主次第でその箱の価値はいくらでも変わる。それが大きな箱か小さな箱、綺麗な箱か汚い箱。どんな形をとったとしても、だ。だからこそ、緑間にとってはこうして目の前で笑う高尾さえいれば、それだけできっと幸せで、そこが緑間の帰る場所になる。そして、高尾がいてこそのその箱の価値であり、意味であり、意義であるのだ。
 今だって、高尾の言葉が、空箱の中、すとん、と大事にしまわれた。重さの増した箱。こうして、少しずつ2人であの箱をいっぱいにしていければいい、と緑間は思うのだ。
 高尾が部屋に対してどんな考え方をしているかはわからない。けれど、高尾にとってもあの部屋が、自分がいてこその帰るべき場所であると少しでも想っていてほしい。緑間は密かに願いを込めて、高尾の手をそっと握った。



・・・



ガチャッ、バタンっ!

 勢いよく玄関の扉が開いたかと思うと、廊下をドタドタと走る音がして、緑間は浸かっていた浴槽で高尾が帰ってきたことを知る。緑間はその音にさっさと頭も洗って上がってしまおうと立ち上がった。
 高尾は、ここ1週間程家に帰ってきていなかった。なんでも大学で受けている講義の実習が泊まり込みで3日。そして入っているサークルの合宿が立て続けに入ってしまったということで、およそ1週間。一度荷物を取りに帰ってきたらしいのだが、その時緑間は大学で授業を受けていたため、顔を合わせていない。つまり、緑間と高尾が顔を合わせず1週間ということでもあった。
 大学が違う2人が顔を合わせる場は、今ではほぼ同棲中の家の中だけだった。それも大学が始まる前の朝。そして大学が終わってからの夕方。夜。休日。それも毎日ではないのだから、高校時代に比べるとお互い一緒にいない時間は多く、そして日毎に増えていた。もし今一緒に暮らしていなければ会うこともほとんどなかったのだと思うと、やはり一緒に暮らすという選択は間違いではなかったのだろう。
 しかし、こんなにも顔を合わせなかったことは初めてだった。高校生であったときは毎日のように顔を合わせ、長期休暇の間でも部活はあったために休暇など関係なしに顔を合わせていた。大学に入ってからも、お互い忙しい毎日を送りながら、例え一瞬だとしても顔を合わせていたし、その限られた時間で声を聞いたり、キスをしたり、ハグをしたり。そんな中、今回の1週間は今までにない期間だった。

(タイミングが悪いのだよ、バカ尾め)

 風呂に入っていなければ、すぐおかえりと声をかけたのに、と緑間は眉を寄せた。
 この1週間。寂しくなかった、と言ったら嘘になる。同棲を始めてから、2人で決めたこの部屋に帰り、ただいま、と声をかければ時折返ってくる弾んだおかえりなさいの声。自分の方が早ければ、ただいま、と明かりの点いた部屋に嬉しそうな声。暖かな食事も、リビングに響く笑い声も、隣にあった温度も。今まで感じていたそれが突然なくなるというのは、ぽっかりと心の中に穴が開いたようだった。早く帰ってくればいいのに、と何度だって思った。声が聞きたくて、触れたくて堪らなかった。
 やっとゆっくり声が聞ける、と緑間がシャンプーを洗い流そうとした時だった。バタンッ、と大きな音が近くでして、驚いて後ろを振り返る。眼鏡をかけていない視界に目を凝らすと、浴室の扉の曇りガラスに何かがぴたりとくっついて影を作っていた。


「真ちゃんのばかあああああ!!」
「た、高尾か?」

 聞こえた叫び声に緑間の肩がびくり跳ねた。久しぶりの声に、心なしか胸が弾む。向こうの影はそんなことも露知らずバンバンとガラスを叩く。

「1週間ぶりだってのにアホ! タイミング悪すぎだろ!!」
「ま、待ってろ。あとは頭を、」
「自分の頭皮と俺どっちが大事なのさ! ハゲたって真ちゃんは真ちゃんじゃん! 早く俺をホールドオンしてよ!!」
「ハゲてたまるか! もう少しだから待っているのだよ!」
「やだむりもう我慢出来ない顔みたい!いっそ俺もお風呂入るからドア開けて!」

 そう言うともぞもぞと動き出した影に緑間はぎょっと目を見開く。それほど広くない浴槽で、さすがに2人で入るのはきつい。ましてや190cm越えとただでさえ一般より大きな体があるというのに、2人で浴槽に浸かるなんてことは無理だった。緑間は高尾と久しぶりに会うということも忘れて扉の向こうを睨みつけた。

「いいから大人しくリビングで待っていろ!」

 一際大きな声で叫ぶ。すると音が止んで、しばらく沈黙が流れると、ゆっくりと影が去っていくがわかった。バタン、と遠くでリビングの扉の閉まる。どうやら、大人しくリビングに行ったらしい。緑間ははあ、と大きな溜息を吐いて、出しっぱなしになっていたシャワーで頭を洗い流した。その時、はっと我に返って手を止める。
 久しぶりだというのに、少しきつく言いすぎてしまったかもしれない。さっきの態度は、どうみたって高尾が自分に会えず寂しがっている態度とほかならなかった。早く顔が見たいという気持ちは一緒だったはずなのに、思わずいつもの調子で大きな声を出してしまった。扉くらい開けて、少しでも顔を見せれば良かったかもしれない。そう思うと先ほどの高尾の沈黙と素直にリビングに消えていったであろう影に焦りを感じる。

「・・・、」

 先ほど素直に見えた高尾は、もしかしたら怒ったのかもしれない。緑間はふと、前に一度喧嘩した時のことを思い出した。原因は些細なことだったが、お互いプライドが高いがために、随分と長期戦になったものだ。喧嘩している間は顔は合わせるものの、2週間一度も口を聞かなかった。結局あの時はいつもの態度から想像も出来ないほど冷たい空気を纏う高尾に緑間が耐え切れなくなり、緑間から話し合いを設けたことで喧嘩は収束した。
 もし今ので高尾が怒ってしまい、喧嘩になってしまったら。緑間はそう考えて頭を抱える。1週間も会っていないというのに、いまから喧嘩になってしまえばこの状態(もしくはもっと最悪な状態)が続くというのだろうか。声が聞けない。高尾に触れられない。抱きしめてやれない。笑顔が見れない。

 そんなことは、今の緑間には耐え切れない。
 緑間はいつもよりも荒々しく泡を洗い流すと、急いで浴室を飛び出した。



 髪も満足に乾かさず慌ててリビングの扉に手をかける。しかし、いざとなると怖気づいてしまって、緑間は一度手を止めて静かに扉を開けた。
 扉を明けてすぐのソファに、高尾は座っていた。座っていた、というより、ソファの上で体育座りをして丸まっている、と言った方が正しいだろうか。ソファの背に顔を押し付け、完全に拗ねてしまっているのが長年共にしてきた経験でわかる。その小さく丸まった体を抱きしめてやりたい衝動に駆られるが、そんな勝手な行動をしてどんな反応をされるかわかったものではない。これ以上怒らせれば、それこそ本当に喧嘩になりかねないのだ。
 緑間は恐る恐る高尾に近付いた。

「・・・・・・高尾」

 緑間の声にぴくりと反応した高尾だったが、顔は上げない。これはまずいかもしれない、と緑間はそのまま高尾の隣にそっと腰掛けた。高尾は普段着のままで、着替えていないらしい。ソファの下に乱雑に投げ出された靴下だけが、先ほどリビングに戻った高尾の心情を表しているようだった。

「高尾」
「・・・・・・、」

 いつもよりかは柔らかい声で名前を呼ぶが、反応はない。これはもう、完全に拗ねてしまっている。どうにかしなければ、と頭では考えるが、どうしていいかわからない。とりあえず高尾がどうにかこちらに顔を向けないかと願いを込めて名前を呼んだ。

「高尾」
「・・・、」
「・・・高尾」

 何度呼んでも、高尾は顔を上げない。
 緑間は、目の前にいるのに手を伸ばすことも、声を聞くこともできない状況に突然寂しさが波のように襲うのを感じた。会っていなかった時とは比にならない程のそれに、緑間はいつになく焦りを感じた。本当は自分だって高尾が帰ってきたらすぐに出迎え、飛び込んでくるであろうその体を抱きしめておかえり、と声をかけたかったのだ。けれど、どうしたってあのタイミングだったのか。数十分前の自分を恨みがましく思いながら、緑間は無意識に高尾の髪に手を伸ばした。

「高尾」

 額を支える膝にかかる前髪をそっと避けて少しでも高尾の顔が見えないかと覗き込む。しかし、生え際が少し見えるばかりでその表情は全く見えない。ただそれだけのことが、緑間に追い討ちをかけるように寂しさとなって襲う。傍から見れば、母親に怒られてどうにか機嫌を取ろうとしている大きな子供のようだ。
 緑間はしばらく高尾の毛先を指先で弄びながら、そっと手を離す。それから高尾の足の指先をつついた。どうにかして反応が欲しかった緑間は、目に付く限り高尾に触れる。それから高尾の足の甲を撫で、手の平を重ねる。風呂上りで温まった緑間の手のひらに、高尾の晒された足先はとても冷たく感じた。

「・・・・・・高尾」

 自分でも情けない程小さな声だった。そして、緑間がすまなかった、と普段ならこんなに早く言葉にすることのない謝罪を口にしようとした時だった。
 突然動き出した高尾が、勢いよく緑間の胸に飛び込んだ。緑間は突然のことにそのままソファに倒れそうになった体を肘掛になんとか寄りかけ、支えた。少し背中が痛んだが、その痛みはすぐに引いていく。緑間は目を白黒させながら、追いつかない頭で反射のように高尾の背中に手を回した。
 しかし、しばらくしても高尾は緑間の胸に顔を埋めたまま何も言わない。緑間はどうしたものかと変わったのかどうなのか微妙な今の状況にただ身を固めるしかなかった。背中に回した手は、振り払われないままだ。

「・・・・・・高尾?」

 小さく声をかけてもやはり返事はない。しかし緑間は久しぶりの高尾の体温に胸が甘く痺れるように満たされるのを感じて、無意識に抱きしめる腕にぎゅう、と力を込めた。

「俺怒ってんだからな!」

 そう怒鳴りながら、突然がばりと顔をあげて高尾が緑間を睨みつけた。驚いた緑間は、びくりと肩を震わせ、高尾の顔を覗き込んだ。その表情は怒っているのにどこか悔しそうで、緑間は発せられた大声にも驚きながらも、やっと見れた高尾の顔にほっとする。そのまま高尾の頬に手を伸ばして指先でそっと撫でると、ぐ、と高尾がさらに悔しそうに眉を下げた。

「お前に出迎えてもらう気満々で玄関開けたのに、ちょうど風呂入ってるとか、まじお前って空気読めないよね・・・・・・」
「・・・すまん」
「風呂入っちゃってたんなら仕方ないけど、少しくらい顔見せてくれるとかさ。まあ、お前がそんな気遣えるとか思ってないけど・・・。でも、俺ばっかり寂しかったみたいなさぁ!」
「それは、」

 それは違う、と緑間が口を開こうとした時、高尾がはあ、と大きく息を吐いて緑間の胸に顔を埋めた。

「それなのにそんな寂しそうな声出すなよ・・・・・・怒れねーじゃん・・・・・・」
「は・・・、」

 思いもがけない言葉に、間抜けな声が出た。高尾が再び顔を上げた時には、その表情はもういつもの自分を茶化してくるときの笑顔で、あまりの変わりように緑間は驚いて目を見開く。その表情に、高尾はさらに笑みを深めた。

「真ちゃん。そんな寂しかった?」
「っ、ば、馬鹿なことを言うな! ただ、俺は、その、」
「そーかそーか。そんな寂しかったか!可愛いなぁ真ちゃんはもー!」

 緑間の言葉も最後まで聞かず、高尾は満面の笑みを浮かべて緑間の髪をぐしゃぐしゃに掻き回す。乾ききっていない毛先からは水滴が飛び散って、緑間はおいっ、と咎めながら、高尾の手を払おうとはしなかった。悔しいが、高尾の言ったことはすべて事実だった。水滴を散らす髪が何よりの証拠だ。それに加え、やっと見れた高尾の笑顔に、緑間は胸が満たされていくのを感じていた。
 ここ数日、たった一人のこの部屋はとても冷たく感じていたのに、今ではまるで灯りが灯ったかのようにじわじわと温かく色づいていく。笑顔も、声も、触れる手も。すべてが緑間の胸を満たしていく。

「・・・・・・馬鹿め」
「嬉しいくせに」

 ブリッジをあげて視線を逸らす緑間にそう言って、高尾は笑いながらほっとしたように息を吐き、緑間を抱きしめる腕に力を込める。それからうーうーと唸りながら顔をこれでもかと緑間に擦りつけ、またへらっと笑うと緑間の顔を見上げた。緑間はその間高尾の背に腕を回しながら好き勝手させていたが、じっと見つめられて視線の意味を理解すると頭を優しく撫でつけた。そのまま何度か頭を撫でると、高尾はむ、と眉を寄せる。そしてん!、と唇を尖らせねだる高尾に、緑間は思わず笑みを浮かべた。そうじゃないだろうと言う目が、愛しくて堪らない。
 それからゆっくりと望むように微かに突き出された唇を悪戯に食んで、軽く重ねるような触れるだけのキスをする。離す寸前、甘えるように追ってきた唇に気付いて、緑間はもう一度唇を重ねるといつもより少しだけ長いキスをした。

「・・・・・・はーっ。幸せ」

 唇を離した途端緑間の肩に頬を寄せながらだらりと脱力しきったように呟く高尾を、緑間は優しく受け止めながらさり気なく高尾のつむじに鼻を埋め、綺麗な黒髪に頬を寄せる。
「真ちゃんとこうしてる時が俺は一番幸せだよー」
「・・・、」

 俺もだ、と答えるか代わりに、ちゅ、とつむじに軽く口付ける。それがくすぐったかったのか、高尾は小さくこら、と言いながら嬉しそうに笑った。
 それからこの1週間のことを思い出したかのようにはあ、と溜息を吐く。

「真ちゃんに会えないわ家にも帰って来れないわ、すげえ疲れちゃったのだよー」
「真似をするな」

 ぐすん、と泣く真似をするので、緑間は黙って高尾のつむじに乗せた顎に力を込めた。いてて、と逃げる高尾に、緑間はすぐに力を抜いて撫でてやる。咎めるフリをしてする戯れるような行為は、緑間の無意識にする甘え方だ。それからごめんなさい、とふざけた口調で謝ると、不機嫌そうな顔をしながらも疲れたと零した自分を労うかのように背を撫でた緑間の手に、高尾は耐え切れず笑った。

「笑うな」
「だって、真ちゃん俺に甘いんだもん」
「・・・・・・」
「否定しないんだね」

 拗ねた顔をしながらも背を撫でるのをやめない緑間に、高尾は緩む頬をそのまま緑間の胸に擦り寄せた。まるで懐ききった猫のように緑間にくっつき、思ったことを素直に口にする。

「真ちゃんに甘やかされるの、すげえ好き」

 ぴくりと背中の緑間の手が跳ねて、沈黙が流れる。高尾が緑間の表情を伺おうと顔を上げると、複雑そうな顔をした緑間が高尾を見ていた。高尾はその表情に吹き出すと、そのまま肩を震わせて笑い始める。

「はは、ちょ、もう、真ちゃん顔!」
「お前、言い方があるだろう」
「ん? 甘やかしたくなっちゃった?」

 悪戯に笑ってみせると、緑間はむ、と少し唇を尖らせる。ああ、本当すぐに顔に出るんだから、と高尾はその唇を指で摘んでやった。やめろ、と開かない口でごにょごにょ言う緑間に、高尾はまた笑ってその唇にほんの一瞬だけ自分の唇を重ねて離してやる。

「可愛いからつい」
「誰が可愛いか」

 そう言って今度は緑間からお返しとばかりにキスをされる。今度は触れるだけじゃない、お互いを確かめるようなキスだった。


「そういえば、風呂はどうする」

 しばらくじゃれる様なキスをして、自分たち以外誰もいない部屋で、まるで内緒話でもするようにこそこそと顔を近づけ話し、またキスをする。そんなことを繰り返していると、緑間がふと思い出したように高尾に声をかけた。高尾はちらりとリビングの時計を見て、ああ、と頷く。

「入る」
「じゃあ、早めに入ってしまえ。湯が冷める」
「ん。じゃあ、入ってきまーっす」

 そう言って立ち上がった高尾に続いて、緑間も立ち上がった。上がったらまたいっぱい構ってな、と笑う高尾に最後、もう一度キスをする。高尾は自分で脱ぎ捨てた靴下を拾い上げると、浴室に向かうためリビングの扉に手をかけた。


「・・・・・・んー」
「?、なんだ?」

 高尾の置きっぱなしになっていた荷物を端に避けようとしていた緑間が、高尾の考え込むような声に顔をあげた。高尾は緑間をじっと見つめていて、緑間は首を傾げる。荷物の中に何か取り出したいものでもあったのだろうかと緑間が言葉の続きを待っていると、高尾はへら、とそれは気の抜けた笑みを零した。

「やっぱ、真ちゃんがいるこの部屋が一番落ち着く」

 さっき一人でリビングいたらすげぇ寂しくてさぁ、とそれだけ言って満足したように鼻歌を歌いながらリビングを出た高尾を、緑間はじっと見つめていた。リビングの扉の向こうから微かに聞こえる鼻歌と、閉まる扉の音。洗濯籠にでもぶつかったのか、ガタガタと鳴る音。それを緑間はじっと聞いていた。
 ふとこの部屋を決めた日のことを思い出す。
 高尾と2人、たくさんの大切なものをしまってきたこの部屋だが、高尾がいなければ途端に空箱のように軽くなる。そしてそれが、高尾にとってもそうであると、そう思ったもいいのだろうか。緑間は先ほどの高尾の言葉を頭の中でもう一度繰り返し、笑った。
 しかしこの部屋が、今ではたとえ空箱のように軽くとも大切で堪らないのは、きっと過ごしてきた時間。そして何より、あの日の高尾の言葉があるからだ。自分たちの番号だと言った幸せそうに笑う顔も、密かな願いを込めて繋いだ手をしっかりと握り返してきた手も。
 すべて箱の奥底に大事にしまわれ続けた大切な思い出。それを高尾は覚えているだろうか。部屋の鍵についたお互いの背番号が書き記されたバスケットボールのキーホルダーは高尾が買ってきたものだし、きっと忘れてはいないだろうけど、それでも話がしたかった。箱にしまってきたものを、時には取り出してみるのもいいかもしれない。箱の中の数え切れない思い出と、気持ちと、時間と。そして、しまってきたもの一つ一つを眺めながら、懐かしい話も、これからの話もたくさんしよう。きっといつもより早めに上がってくるだろう高尾を待ちながら、緑間は静かに部屋を見渡した。
 一人の部屋は、もう寂しくはなかった。