おかえりなさい


「勝手にしろ!」
 激しい口喧嘩の後、緑間はそう言うや否や寝室に入り、バタンと音を立てて荒々しく扉を閉めた。残された高尾は行き場のない怒りを拳に込めてクッションにぶつけるが気持ちは静まらない。クッションに顔を埋めたままソファーに倒れ込んだ。
「真ちゃんの分からず屋」






「高尾、歯磨き粉がもうないのだよ」
「鏡の裏の棚に入ってるだろ。ちゃんと探せよ」
 結局あれから互いに一度も顔を合わせないまま、高尾は緑間と眠る気にはなれず、リビングのソファーで朝を迎えた。
 洗面所から身支度を終えた緑間がダイニングチェアに座れば、高尾は食器を慌ただしく片付けキッチンへ向かう。
 本来ならばこの時間は、目を覚ました緑間が部屋から出てくると、キッチンに立つ高尾が「おはよう真ちゃん」の言葉と共に、卓上には炊きたての白米、味噌汁に緑間家の朝には欠かせない、かにかまとほうれん草が入った出し巻き卵といった和食中心のメニューを作っている。それを眺めながら、高尾にキスをして緑間は洗面所へ。
それがいつもの朝なのだが、今日は「おはよう」の言葉もなく朝食も並んでいない。それどころか、高尾は一度も緑間と目を合わせようともしなかった。
「いつまで怒っているつもりだ」
「何その俺が悪いみたいな言い方。元はと言えば真ちゃんのせいだろ」
「俺は別に悪い事はしていないのだよ」
「っ、もういい!」
 高尾は鞄を掴み、投げやりにそう言って家を出た。強く閉まった玄関扉の音が緑間の耳に響く。緑間にはそうまでして高尾が機嫌を損ねる理由が分からない。
 一先ず、そっとしておく事にした緑間は溜息を付いて朝食を食べようとキッチンへ足を進める。テレビから流れる占い前の天気予報を聞きながら、朝食を取りにそこへ行けば、緑間を待っていたのはありえない光景だった。
「なん、だと……?」
 つい先ほどまで高尾が食事をしていたから、用意していないだけで当然自分の分もあると思っていた。味噌汁が入っているはずの鍋の蓋を開けても、炊飯器の中も、食べる物が見当たらない。冷蔵庫の扉を開けようとして、取っ手部分に高尾の字で書かれたメモが一枚張ってある事に気付いた。
『今日は真ちゃんの分の飯ねぇから!』
 二人が、喧嘩をする事はこれが初めてではなかった。
 高校時代は掌で数える程度しかしなかった喧嘩が、同棲してからは倍に増えた。いくら恋仲だと言っても、十年以上も全く別の環境で育った二人が一緒になるのは簡単な事ではない。互いに譲れない部分も多く、その度に衝突した。
長い時は翌日まで長引いた事もあるが、帰宅するまでには自然と和解するのがいつもの流れ。当然今回もそうなると緑間は思っていた。現に昨夜、彼は自分でも言い過ぎたと反省して、今朝、謝罪しようと決めていたのに。
 メモの語尾にはご丁寧に舌を出して、小馬鹿にした顔文字が添えられている。
「高尾がその気なら、俺も謝りはしないのだよ!」
 高尾が緑間の食事を作りたくない程、頭にきている現実を目の当たりにする。
思いも寄らぬ展開に遭遇しているうちに、「おは朝」占いはとっくに終わり8時のニュースが始まっていた。











 帰りづらいと思った日に限って仕事が早く終わる。そういえば今日は「おは朝」占いを見ずに出てきてしまったが、蠍座は最下位だったのだろうか?占いは信じていないが、ラッキーアイテムを持っていれば残業が出来たのかもしれない。高尾は何気なく立ち寄った勤務先から徒歩数分の駅前のファーストフード店に入り、そんな事を考えながらコーヒーを啜っていた。
 今回ばかりは謝らないと決めたのだ。このまま帰宅して緑間と顔を合わせれば、また言い合いになることは目に見えている。帰りたくない。暫く実家に帰る手も考えたが、妹が緑間と喧嘩した事を知ったらきっと心配するはずだ。言い訳を考えるが可愛い妹に嘘は吐きたくない。かといって友人の家を渡り歩くような事は逆に迷惑だ。漫画喫茶やビジネスホテルも考えたが、給料日前で無駄遣いはしたくない。絶体絶命である。
「やっぱ帰るか……」
 気が重いが他に行く当てもないのだ。深い溜息を吐いて、冷めて萎びたフライドポテトを口に入れたその時だった。
「高尾君?」
 ふと声を掛けられて顔を上げると、かつて一方的にだがライバル視していた黒子テツヤがシェイク片手に立っていた。片手には近くの大型書店のショップ袋が握られている。
彼はこのファーストフード店の並びに建つ大型書店によく足を運ぶようで、時々駅前で会っては世間話をしたり、そのまま外食することもあった。
 黒子とは高校一年の夏、偶然一緒になった合宿が縁で、他校の友人の中では最も交流がある。影が薄いのは相変わらずのようだが、この間有名な賞を受賞した小説家で、映画化の話も上がっているらしい。
「……緑間君と顔を合わせるのが嫌で、ここで時間でも潰していたんですか?」
 たった数秒高尾の顔を凝視して感づいたのか、黒子は呆れた顔でそう言って高尾の向かいの席に腰を下ろした。趣味は人間観察だけあって鋭い。
しかし、黒子からしてみれば、緑間の事で悩む高尾が分かり易いだけである。
「まぁ…そんなとこ」
「…………。なら、暫く僕の家に来ませんか?」
 暫く黙ったままだった黒子がシェイクを飲みきり、カップをテーブルに置く。高尾に満面の笑みを向けた。
「君がタダで居座るのが嫌なら、僕の代わりに君が家事をするのはどうでしょう?僕も締め切り前なので君が家事をしてくれると僕も助かりますし、高尾君の美味しいご飯が食べれるなら何日でも居てくれて構いません。それとも…他に行く当てでもあるんですか?」
「う、」
 他に行く当てがないと分かっていて、黒子は高尾を見据えている。悪魔のようなその言葉に、高尾は持っていた紙カップをグシャリと握り締めた。



「さぁ、どうぞ」
「おじゃまします」
 あれから高尾は一度自宅へ戻って軽く荷造りをしてから、黒子の自宅の最寄り駅で待ち合わせた。自宅から駅までの道のりで万が一、緑間と鉢合わせたらと思うと不安だったが、そんな事もなく無事に目的地へと辿り着く。
 途中、黒子が冷蔵庫には何もないと言うので、ついでにスーパーにも寄って食料を調達してきた。
 締め切り前の作家の部屋と聞いて、高尾は悲惨な部屋を想像していたのだが、リビング部屋はとても掃除が行き届き整理整頓されている。洗濯物も山のように溜まっているのかと思えば、ベランダで綺麗に干されて風に揺られていた。冷蔵庫は確かに空だが、どこをどう見ても高尾が家事をする必要はない。
「君がすんなり来てくれるとは思っていなかったので。あ、でも冷蔵庫は事実でしょう?」
 全く悪びれる様子もなく、黒子はスーパーの袋から食材を取り出した。
「まぁ、たまにはいいじゃないですか。高尾君が悪くないなら、緑間君にお灸を据えるいい機会だと思いますよ?」
「お前……」
「僕も手伝いますから、美味しい晩御飯を期待しています」
 黒子の罠にまんまと引っ掛かった高尾は荷造りをして来た手前、今更帰るわけにもいかない。……というより、家主である黒子は当分高尾を返す気はないようである。



 緑間が帰宅すると、部屋は薄暗く静まり返っていた。高尾が帰ってきている気配はない。恐らく、自分と顔を合わせるのが気まずくて残業なり、寄り道なりして時間を潰している事は容易いに見当が付いた。
「遅いのだよ!」
 あれから何の連絡もないまま数時間。残業、寄り道にしては遅すぎる。
確か今日の蠍座の順位は最下位。緑間は高校時代、ラッキーアイテムを持っていないせいで危うく大事故に遭うところだった事を思い出した。あの時は運良くラッキーライテムを入手したお陰で免れたが、高尾はラッキーアイテムを持ってる確率はゼロに等しい。一瞬嫌な予感がして携帯電話に手を伸ばしたその時だった。着信音が鳴り慌てて携帯を開くと、メールが一件届いている。差出人は黒子テツヤ。
「紛らわしいのだよ!」
 高尾からの連絡かと期待しただけに腹が立った。件名には『メイドさんが来ました』の文面と添付ファイル。メールを開くと、添えられた画像には黒子の自宅のテーブルに並ぶ手料理とエプロンを着けた高尾の後ろ姿が目に映っていた。画像下の文章が更に緑間を煽る。
『高尾君は暫く家で預かります。返して欲しければさっさと迎えに来て下さい。まぁ、僕としては来ない方が有難いですが。 P.S高尾君のご飯ウマー!』
 絵文字、顔文字でこれでもかというくらいに装飾された文章に舌打ちして、緑間は携帯をソファーに投げつけた。
「何がメイドさんだ。バカか。高尾も高尾なのだよ。俺に何の連絡も寄越さず――」
 熱湯を注ぐタイプの市販のお汁粉を飲む為、電気ポットで湯を沸かしながら緑間は口を止めた。喧嘩しているのだから連絡するわけがないのだよと。
 黒子の家に居るのは聊か腹立たしいが、高尾に何もなくて良かったと緑間は胸を撫で下ろす。迎えに来いと言うが、今連れ戻しに行っても、彼がすんなり帰るとは思えない。
 今はお互い冷静になる時間が必要だと思った。
「それに高尾の事だ。俺が恋しくなって、明日にでも帰ってくるに決まっているのだよ!」



 そんな緑間の予想は外れ、高尾不在のままもう3日が過ぎようとしていた。
 一番困ったのは食事。米は炊けるが、白米だけではさすがに小食の緑間の腹も膨れない。高尾が黒子の家へ行った日の翌朝は何も準備していなかったので、今までで一番慌しい朝だった。
冷蔵庫に卵があったので試しに目玉焼きを作ったが、少し目を離しただけで黒焦げになり、とても食べる気になれない。初めて作った黒焦げの目玉焼きはフライパンにこびり付き、更には逆さにしても落ちて来ないから、また時間を食った。
 結局、自炊を諦めた緑間の食生活は専らコンビニか外食、惣菜に頼るしかなかった。自分で作るより腹は満たされるが、何だか物足りない。食後にお汁粉を飲んでもそれは変わらなかった。
「おは朝」占いの順位も悪くないのだが、何故か緑間は小さな不運な目に合う。ラッキーアイテムを所持しているのに、電車は延滞。落とした眼鏡は台車に轢かれて破壊。院内の公園で遊ぶ子どものゴムボールが頭に直撃。同じような事が何日も続いていた。順位もラッキーアイテムも問題ないのに、どうしてこうも自分に不運が訪れるのか緑間には初めての事で訳がわからない。
「全く、一体何が原因なのだよ」
 いつもと違う要因があるとすれば、ただひとつ。
「高尾――」



 その日緑間は夢を見た。
 大学入学前に一人で住む物件を探していた頃の夢。
 不動産業者から出された資料の中に、6と10が並んだ部屋を見つけるや否やすぐ下見に向かい即決した。
 主要駅から20分程度離れた住宅街に建つ、九階建てのマンション。最寄り駅は徒歩10分以内で複数の路線が走っている。徒歩圏内にはスーパーが数軒と、ドラッグストアにコンビニが建ち、駅前には大手飲食店も多く、何かと便利な地域だった。
 そのマンション6階の一番端の部屋。長身の彼一人でも広すぎる2LDKには、最低限必要な家具家電と、実家の物より一回り小さいサイズのピアノが置かれている。壁は防音設備が施されているので、時間を気にせず思う存分ピアノが弾ける事は、緑間にとって好都合だった。
 人事を尽くし、当然の如く医師免許を一度で取得した春。今まで持て余していた広い部屋に高尾の物が序々に増え始める。最初は着替え。次に食器。それから私物。自宅へ帰らずとも高尾が生活するには十分すぎるほどの環境が整った。
『最初は何もなかったのに、結構物増えたな?』
『大半はお前のものだろう』
『それでも真ちゃんのラッキーアイテムが多いじゃん!……でも俺、もう此処で住めそうじゃね?』
『分かっているならさっさと引っ越して来い。一体いつになったらお前はうちに越してくるのだよ』
てっきり「バカかお前は」と、呆れた顔をされるのだと高尾は思っていた。否、呆れた顔はしているが、緑間から返ってきた言葉は彼の予想を遥かに超えていて言葉に詰まる。今、目に映るだけでも高尾の私物は緑間と揃いで購入したマグカップやCD、充電器。ベランダから取り込まれたままの緑間の衣類の中には少なからず高尾の衣類もある。先ほどまで使用していた洗面所には、洗顔料やワックスなど恐らく緑間の物より高尾の物の方が多いくらいだ。
 一体いつになったら、なんてまるで随分前から言っていたような口ぶりだが、高尾は一度もそんな言葉を言われた記憶がない。
『通い妻はもう止めろ』
『ぶはっ!し、真ちゃんが通い妻って言った!』
『俺は至って本気なのだよ』
『……通い妻を止めるなら、高尾ちゃんはどうしたらいいのだよー?』
 高尾には彼が何を言いたいかなんてとっくに分かっている。それでも、高尾は緑間の口からその言葉を聞きたかった。背を向けて座っていた身体を緑間に向けて、ソファーに座る彼の膝に両腕を付き、口角を上げてニヤリと笑う。首を傾げて甘えるように緑間を見上げて言葉を待った。
『うちに引っ越して来い。此処で俺と住むのだよ、高尾』
 医師としての仕事が安定し始めた秋。医学生の頃から通い妻を続けていた高尾が緑間の部屋に越して来てきた。
 家賃や光熱費、食費など共有している費用はキッチリ半分。
家事は当番にして出来なかった場合は臨機応変に対応。それでも、料理だけは高尾が担当すると言った。流石に任せきりは良くないと思った緑間も覚えたい一心で手伝うが、手つきが危なっかしくて高尾は見ていられない。ただ、米研ぎだけは出来ると自信を持った緑間は、何かと米を研ぎたがる。毎日「炊かなくていいのか?」と、そわそわしながら尋ねる様子が、まるで母親のお手伝いを覚えた子どもみたいで、米を研ぐ緑間の姿を見ながら、高尾は隣で笑いが止まらなかった。



 目を覚ました緑間は、体を起こす。
 高尾がいないベッドはこんなにも広かっただろうか。彼が越して来てから一人で眠る事はなくなった。二人でベッドに入れば高尾は猫のように丸くなって緑間に身を寄せる。それが緑間にとって、とても心地良い温かさだった。猫は嫌いだが、高尾が猫ならそれは悪くないと思った事もある。時折寝言を言う高尾の頬を突いて眉を顰める顔を見るのが、密かな楽しみでもあった。
 静まり返るリビングは時計の秒針の音がやけに耳に響く。ここはこんなにも静かだっただろうか。こんなにも冷たかっただろうか。
「随分、情けなくなったのだよ」
 数年前までは一人でいる事に、何とも思わなかった。ましてや寂しいなどと思う事は無縁だと思っていた。それが変わったのは高校に入学してから。
 高尾和成という男と出会って毎日一緒に過ごすうち、バスケに対しても、彼自身に対しても緑間の中の何かが少しずつ変わっていく。
 それを初めて自覚したのは、高尾が風邪を引いて学校を休んだとき。傍にいないのに名前を呼んだ。シュート練習も思うようにいかない。いないはずの高尾の顔がちらついて、「真ちゃん」と呼ぶ声が聞こえるような気さえした。
 付き合うようになって、同棲して気がつけば高尾が隣にいる日々が、呼吸をするのと同じように当たり前な事になった。失って改めてその大事さに気付かされる。
「高尾が恋しいのは、俺の方か」
 あんな夢を見たせいか、急に寂しさが押し寄せた。会いたくてたまらない。早く声が聞きたい。腕の中に閉じ込めて、高尾が許してくれるまで謝って、それから、たくさん甘やかしてやりたい。









 仕事を終えた緑間は黒子に電話を掛けた。随分遅くなってしまったが、高尾を迎えに行くために。
「黒子、悪いが今から行く」
「困ります」
 黒子は緑間の言葉をすっぱりと切り捨てた。緑間は病院のロッカールームにいる事も忘れて、大声を出しそうになるのをグッと堪える。
「高尾君が家に来てから何日経ってると思ってるんですか?バカですか?あ、すみません。バカでしたね」
 冷ややかな声で緑間を蔑む黒子。本気の怒りがひしひしと伝わる。
黒子にとって高尾は当たり前のように自分を見つけてくれ、初めてライバルだと言ってくれた相手だ。そんな相手に懐かないわけがない。大事な友人を三日も放置した挙句、一向に迎えに来ないその恋人に対して棘のある言い方になるのは当然である。
「何でさっさと迎えに来ないんですか?高尾君は君にベタ惚れだからすぐ帰るとでも思ったんですか?本当にバカですね。まぁ、お陰で僕は美味しいご飯と高尾君との楽しい日々を満喫出来たので、そこは感謝しましょう。それにしても、高尾君の有難みに気付くのにどれだけ時間が掛かってるんです?もう一日遅かったから、僕が高尾君を寝取っていたところですよ。高尾君の寝顔があまりにも可愛いので、僕の理性も限界でしたから」
「返す言葉もないのだよ。それから、冗談はよせ」
「そんな怖い声で言わなくても何もしてませんから安心して下さい。僕が高尾君を困らせるような事をするわけないじゃないですか。あぁ、それから――」
「まだ何かあるのか」
「うちに来ても高尾君は居ませんよ。ついさっき帰りましたから。それじゃあ、原稿があるので、僕はこれで失礼します」
「待て、黒――」
 緑間の言葉も聞くまでもなく、黒子は電話を切った。
 彼からの着信が入るほんの数分前。仕事を終えて黒子の部屋へ戻ってきた高尾は荷物をまとめ、自らの意思で自宅へ帰った。
 最後まで明るく振舞い、緑間の話をしなかった高尾だが、喧嘩していてもやはり緑間が気になって仕方ない事はすぐ分かった。家賃代わりとして黒子に代わって家事をしている時、高尾はいつも上の空で少し不安げな顔をしていた。
泊まりに来てから彼が中々寝付けなかった事も、寝言で「真ちゃん」と呟いていた事も、その寝顔に涙の跡が残っていた事も黒子は知っている。ベタ惚れしているからこそ、口争いが怖くて帰れなかった。きっと高尾は緑間が迎えに来てくれる事を少なからず望んでいたんじゃないかと、黒子は思う。いつも携帯ばかり見つめて、連絡を待っていたのだから。
「結果的に、迎えには来ましたが間が悪いというかなんというか」
 恐らく高尾は緑間の事が心配なあまり、彼が迎えに来るまで待てなくて自ら帰宅したのだろう。
高尾と同棲する前に緑間のマンションへ皆で押しかけたときも、家主である緑間より高尾の方が家の事を把握しているくらいなのだから。話を聞く限り、高尾と同棲してから緑間の生活能力が著しく低下しているらしいので彼が心配するのも無理はない。
「そういえば…喧嘩の原因を聞き忘れていました」
 高尾が帰る前に作ってくれたから揚げをひとつ口に放り込んで、黒子は呟いた。









 緑間が自宅の扉を開けると、廊下の先の扉の向こうに明かりが灯っている。ふと玄関を見下ろすと見慣れた靴がきちんと揃えられていた。冷たい廊下を一歩一歩踏みしめて、ゆっくりと扉を開ける。
香ばしい肉の焼ける匂いと白米の炊ける匂いが緑間を出迎えた。つい数時間前までの冷たさが嘘のように部屋が温かく感じる。
 「おかえり。つーか、たった3日家空けただけで何つー、体たらくだよ?」
 高尾が帰宅した部屋はまさに、想像を裏切らない部屋だった。
一見変わりない綺麗な部屋に見えるが、流しには洗い残しが目立つ食器。アイロン皺の残るYシャツ。洗濯機の中は無理矢理詰め込んだせいで、半乾きの衣類。ゴミ箱の中は、惣菜と汁粉のゴミで埋め尽くされている。自分のいない間の緑間の生活が手に取るように分かり、笑ってしまった。
「汁粉は二日に一回の約束だろ?一日に何本も飲んでメタボになったらどうすんの。俺、腹出た真ちゃんなんか嫌だからなー」
 キッチンに立つ高尾は喧嘩していた素振りも見せず、いつもの調子で茶化しながら緑間の目を見据えた。まな板の上にはほうれん草。まな板の傍のボールには、かにかまと溶き卵が入っていた。
久しぶりに見た高尾は目も赤く、数日前にはなかった隈が白い肌に目立つ。込み上げる感情が抑えきれず、腕を伸ばして後ろから高尾を腕の中に収めた。
「真ちゃん、俺包丁持ってんだけど」
「高尾」
「んー?」
「高尾」
「なーにー?」
「すまなかった……」
 名前を呼ぶ度に、抱き締める腕により力を込める。
「自分がどれだけ愚かだったか改めて実感した。お前がいないと俺は寂しいのだよ。隣にいないと睡眠もままならん。高尾の食事じゃないと物足りん。どんなに『おは朝』の順位が良くても、ラッキーアイテムを持っていても、高尾の顔を見ないと、声を聞かないと何の効果もないのだよ」
 普段の偉そうな態度は一体どこへ行ったのやら。緑間は高尾にすがりつくように声を出す。高尾はゆっくり包丁を置いて、緑間の手に自分の手を重ねた。
「俺、喧嘩してんのに真ちゃんのことばっか考えてた。ちゃんと飯食ってるかとか、俺がいなくてちゃんと生活出来てるのかとか。そうやってお前の心配ばっかしてるうちに、喧嘩してた事とか全部どうでも良くなって……帰って来ちゃった」
 俺もひどい事言ってごめんね、と高尾は緑間の胸板に頬を寄せて背中に腕を回す。
 本当は寂しくてたまらなかった。優しい腕が恋しかった。迎えに来てくれないんじゃないかと不安に押しつぶされそうになった。
久しぶりに緑間に触れて、触れられて、高尾の心を隅々までゆっくりと満たしていく。
「俺も真ちゃんがいなくて寂しかったのだよ」
 素直に寂しかったと言うのが何だか恥ずかしくて、冗談交じりにそう言った。真似をするなと怒られると思いきや、ふと体が離れて唇に柔らかいものが触れる。
「おかえり、和成」
 あまりに一瞬の事で、何が起きたか理解出来ない。
 高尾が好きな緑間の左手が頬を撫でている。何より驚いたのは、おかえりと言った緑間の微笑む顔があまりにも綺麗だった事と、名前を呼ばれた事。返事をするのも忘れて見とれてしまう。そんな顔を向けられて、高尾は火が出そうなほど、自分の身体が熱くなっていくのを感じた。
そんな愛おしそうな顔で、そんな優しい声でそんな事を言わないで。
「し、真ちゃん!」
「何だ?」
「ご飯とお風呂……と……俺、どれにする?」
 俯いたまま、消えそうな声で「俺」と言った高尾の言葉を緑間は決して聞き逃しはしない。心の眼鏡が粉々に破裂する音がした。
 返事がない緑間が気になって視線を上へ向けると、ふわりと高尾の体が浮く。
「ちょ、え、真ちゃ――」
「そんなあざとい事をして、今日は寝れると思うなよ」
 高尾を担ぎあげ、緑間は器用にもコンロの火を止め寝室へと歩み出した。

















「で、結局喧嘩の原因はなんだったんですか?」
「真ちゃんがキムチ捨てたんだよ」
「……はい?」
「賞味期限一日過ぎたくらいで俺のキムチ捨てたの!ひどくね?二、三日くらい過ぎても食えるって言ってんのに『食中毒になったらどうするのだよ!』って。今考えれば、バカバカしい理由だよなぁー?まぁ、こないだの事があってから、賞味期限切れのやつは捨てる前に聞いてくれるようになったけど」
「……ごちそうさまでした」






* fin *