ナマズ間さん


 ゆめにまでみたゆめにてがとどきそう

 高尾はいつもと同じ時間にベッドを這い出すと、やはりいつもと同じように台所に出た。15分前に起動するように設定してある床暖房のお蔭で、冬の朝でも足元はそれほど冷えない。流しの横に並んでいるシンプルなガラスのコップを取り出して、それいっぱいに水道水を注ぐ。朝いちばんにコップ一杯の水を飲むのは高校のときからの癖で、もともとは便秘に悩んでいた母が、胃腸の調子を整えるのに良いらしいと言い出したものだ。便秘云々はさておいて、起き抜けに冷たい水を飲むと、一気に目が覚めるのが部活現役時代に気に入って、すっかり日課になっている。ごくん、と飲み干すと、高尾はひとつおおきな伸びをして、冷蔵庫を開けた。使いかけの人参と玉ねぎを取り出してまな板に並べる。トントン、と包丁が小気味よいリズムを刻むころには、高尾はすっかり覚醒していた。

 そのころになると、やはりいつもと同じようなタイミングで、緑間が起き出してくる。大きな体を引きずるようにしてのそのそと歩いてくる緑間のだらしない姿は、何回見ても笑ってしまう。一回「怪獣さんみてえ」と言ったところ、ぽかりと殴られた。嘘。十五回くらい言ったわ。んで、十五回くらい殴られたわ。

「おはよー真ちゃん」

「おはよう」

 じっと高尾を見つめながら生真面目に一音一音発音した緑間に、高尾はぷっと吹き出す。挨拶は顔を見ながら言おう、小学生にするみたいな約束を言い出したのは高尾ではなく緑間だ。緑間のことだから、そういう些細なこと一つ一つに意味を持たせているのだろうことは明確で、明確だからこそ、こころが温かくなる。たくさんの「意味があること」で囲って、そういう彼らしい形で高尾との関係を大切にしようとする、緑間の気持ちがよく伝わるから。

 寝ぼけまなこの緑間は、その割にしっかりとした手つきで食器洗い器から温泉卵メーカーを取り出す。温泉卵メーカーをケトルの方まで持って行って、温泉卵メーカーのお湯の線にまで熱湯を注ぐ。残りに水を入れる。両方とも、神経質すぎるほど気にして、水量が線ぴったりになるようにするのが面白い。炊飯器のセットも緑間の役目なのだけど、御釜に水を注ぐときも温泉卵を作るときと同じように目盛を凝視する。高尾は中学のときに習ったメスシリンダーの目盛の読み方を、この年まで使うものだとは思っていなかった。

 緑間は冷蔵庫から卵をふたつ取り出すと、温泉卵メーカーにはめる。卵をつんつんとつついても動かないことを確かめると、満足気に温泉卵メーカーの蓋を閉じて、電源を入れる。そしてまた、のそのそ歩き、途中でしゃがみこんで、ぺたり、床に寝ころぶ。人参も玉ねぎも刻み終わり、片手鍋に出汁のもとと水と野菜を放り込んだ高尾は、眉根を寄せて床にひっつく緑間を見た。

「真ちゃん、汚れるでしょー」

「昨日掃除したばかりだからほこりも見当たらないだろう」

「へりくつ言うんじゃない。……寒い?」

「少しな」

 へなへなにょるん、とでも効果音が付きそうな寝姿は、さながら爬虫類のようだ。緑間はこの床暖房をとても気に入っている。ぺたりと床に張り付く姿をだらしなく感じつつもどうしても可愛く思えてしまって、毎日のことなのに頬が緩む。

 緑間は、エアコンによる乾燥を嫌う。高校のときは女子か、と突っ込んだし、今ならOLか、とつっこむ。かつて「男子だ」と不機嫌そうな顔をした緑間が、今は「プロバスケットボールプレイヤーだ」としたり顔をするのだから、未来はわからないような、わかりきっているような。それはともかくとして、緑間がエアコンによる乾燥を嫌がるので、暖房器具を床暖房に頼るしかないのだ。寒がりな緑間が暖をとるにはそうするしかないのかもしれないが――――それにしたって、床に張り付いて暖を取るのはどーよ、と高尾は思う。みろよ、このだっらしない寝姿。ファンが見たら泣くぞ。

「着込めばいいじゃん、俺みたいに」

 自分が着ている、祖父母からのもらいものの袢纏を指さして言えば、そうだな、と中身の籠っていない返事が返ってくる。あ、こいつ俺がやめろやめろ言ってんのぜんっぜん気にしてねえな。煮立った片手鍋の中身を気にしつつ、高尾はため息を吐いた。今日は掃除したてだからいいとはいえ、いつもいつも床が綺麗なわけではない。二人とも気が付いたときには天下のコロコロ様でお掃除をしているけど、お互い課せられたタスクがあって、一時期に比べたら余裕があるとはいえ暇とはいえず、常にぴかぴかの状態に、とはいかない。緑間が床に寝ころぶたびに部屋着は多少なりとも汚れる。洗濯機を回すのと洗濯物を干すのは緑間の仕事だけれど、たたんで仕舞うのは高尾の仕事なわけで。高尾が文句 を言えば、なら全部俺がやるとか緑間は言い出すだろうけれど、あんなに精密なシュートを投げるのに家事については不器用大魔王の緑間に、衣類をたたむことを任せる気はおきない。
 そういうことで、緑間のこの可愛いくだらしない癖を、高尾は辞めさせたい。しかし、言って辞める男でないのもわかっているし、それが彼なりの甘え方なのもわかっている。うーん、と高尾は考えながら、鍋に味噌と乾燥ワカメを入れた。シンプルな味噌汁が、ほぼ完成した。

「なー真ちゃん、やっぱりエアコンつけようぜー、そしたらそんなだらしないことしねーっしょ?」
「断る。湿度が下がるのは嫌いだ」
「じゃああれ、加湿器買おうぜ!」

 緑間はちょっと考えているらしく、返事が返ってこない。味噌汁の中のわかめがふやけるのを見ながら、あ、そうだ、と高尾は声を出した。面白いことを思い付いた。

「なー、真ちゃん、真ちゃん!」
「どうした高尾」
「水槽置こうぜ!」

 は?と高尾を見上げる緑間に、高尾はにい、と笑って、鍋の乗ったIHヒーターの電源を切った。



 「いただきます」という挨拶も、やっぱり相手の顔をしっかり見てから言う。緑間が作った――――作ったといえるのかはさておき――――温泉卵を、高尾はご飯の上に乗っけた。緑間はいつも、温泉卵メーカーが音を立てるなり「温泉卵ができたのだよ」と得意げに言う。なんで温泉卵だけでドヤ顔すんのお前、と理性は呆れているのに、褒めて、とでも言いたげな緑間の目を見ては、自分のあほさに全く気付いていないらしい頭をぐりぐりしてやりたくなってしまうのだ。嫌がるからやらねーけど。たまにやるけど。

 ちなみに緑間の得意料理(?)は温泉卵と御粥だ。なんでそこ二つ、と訊いたら、「前者は朝ごはんに毎日作るから得意で、後者はお前が風邪をひいたときのために練習したから得意だ」とかのたまうのだから、ロースペックなんだかハイスペックなんだかわからない彼氏様が愛しくって仕方ない。食事のたびに笑顔になるのは、温かいご飯がおいしいのもあるし、緑間の些細な仕草が愛おしいからでもある。どっちにしても幸せという単語のなかに収まるのだけれど。高尾がほくほくとした思いで温泉卵ごはんを頬張ると、その様子をじっと見つめていた緑間が、そういえば、と言い出した。

「高尾、さっきの水槽というのは」
「あー、加湿器置こうかなって思ったけどさ、それだけじゃつまんねえから水槽置かね?ってだけ。とりあえず空気に水がいきゃあいんだろ?」
「何かを飼うのか?」
「そのほうが面白いよなー。熱帯魚でもいいし、メダカでもいいし、水草とエビだけでもいいし、和風に金魚とか鯉でもいいかなー」

 緑間は興味を持ったらしく、高尾の話をじっと聞いている。緑間が植物や動物が好きだ。女の子みたいに園芸店やペットショップできゃあきゃあするわけではないけど、通学路の木の上にとまる鳥の名前を知っていたり、赤い花を咲かせる木の名前を教えてくれたり、静かな形で生き物を見つめている。猫は苦手だけどな。ごろにゃあ。

 なんて、ほほえましく緑間を見つめていた俺が間違ってたんだよね。

「……サンショウウオ」
「は?」
「サンショウウオを飼いたい」

 至極真剣に言い出した緑間に、高尾は文字通り目が点になる。わかってた、わかってたじゃん俺、こいつちょいちょいおかしいって。俺が一番わかってたはずじゃんそんなこと。ぷるぷると震える高尾を見て、緑間はこてんと首を傾げる。ちくしょう、かわいくねえよ195センチのプロバスケプレイヤーのくせに!!あーうそ、ちくしょうやっぱり真ちゃん可愛い!!……というパッションはおいておいて、俺は大きなため息をついた。感情と現実問題は区別できる男、それが高尾和成だ、どうだかっこいいだろう。

「あのな真ちゃん、なんでサンショウウオ?ってかサンショウウオってどんなんだっけ?で、サンショウウオってどうやって飼うの?」

 とりあえず質問を三つぶつけてみると、ずず、と味噌汁をすすっていた緑間はふむ、と高尾を見た。

「何故サンショウウオかというと、単純に好きだからだ。できればエゾサンショウウオが良いのだよ。サンショウウオの形態と飼育方法については、食事が終わったらインターネットで見せてやる」

 偉そうに言い放つ緑間に、高尾は取り敢えず頷いておいた。飼育方法がわからないうちはなんとも言えない。緑間はもう、「水槽を加湿器代わりにしてエアコンをつけて、緑間が床暖房に寝ころぶ癖を辞めさせる」という目的を忘れているような気がするが、それは後で高尾がもう一回指摘すればいいことなので気にしないことにする。

 緑間のお茶碗が空になったので、自分のお味噌汁のおかわりのついでによそってやることにした。炊飯器のデジタル時計を見たら、七時七分だった。高尾は胸の中でラッキー、と呟く。時計が大好きな人の誕生日を指していると、ちょっとだけ幸せになるのだ。

   *******

「これがエゾサンショウウオだ」

 どうだ、と誇らしげにパソコンの画面を指さす緑間の頭を、高尾はぽかんと軽く叩いた。緑間は不服と言わんばかりに高尾を見下ろす。

「何が気に食わないのだ。日本産サンショウウオの中ではとくに愛らしい形態をしていると思うのだが」
「写真見た限りほかのサンショウウオとの違いよくわっかんねーから!お前の感性何年経ってもわかんねー!」
「もっと観察しろ、人事を尽くせ。多種に比べ目が大きいと思わないか?つぶらだろう」
「言われてみりゃそんな気もするけど」
「だろう」
「……キャー真ちゃんのドヤ顔カッコいー」
「ちなみに、エゾサンショウウオはほかの種に比べて比較的入手しやすい」
「入手っつーか捕獲な。まあいいんだけどさ、ラッキーアイテム云々を思えば今さら万単位のお金と日単位の時間使って北海道まで旅行にいきがてら自然を満喫しまくってサンショウウオの一匹や二匹捕まえるのは構わねーよ?そんくらい笑って流すけど」
「群生する種なので数匹で飼育するのが望ましいと思われる、確証はないので本を買うか」
「おい待てコラ、話聞け」

 本屋のホームページにいって在庫検索をかけようとする緑間の頭を、高尾はもう一度ひっぱたいた。恨めしそうな子供っぽい視線に吹き出しそうになるのをぐっとこらえて、緑間を見つめる。

「さっきのページのさ、飼育方法あったじゃんか」
「ああ。夏は冷却するのがいい。水は少量で良く、割れた植木鉢などの隠れ家を用意するのが望ましい」
「あのな真ちゃん、なんのために水槽置くかわかってる?」
「……」

 高尾が少し低い声で言うと、緑間は目をそらす。本来の目的を思い出したらしい。基本的に理知的なはずの緑間だけれど、ときどき手の付けようがないほど馬鹿だ。

「サンショウウオの水槽は、加湿器代わりには使えねえよな?」

 緑間の喉が、ごくり、と大きな音を立てる。俺はにっこりとした笑顔を浮かべた。そして、無慈悲に言い放つ。

「却下」

 しょぼくれた緑間がこてんと頷いた。ちっくしょう可愛いなこいつ。俺は頬を綻ばせながら大きな子供の頭をよしよしと撫でる。ごめんな真ちゃん、でも真ちゃんを甘やかしすぎるのはよくないって先輩たちも黒子たちも言うからな、仕方ねえよな。べっ、別にしょぼんとした真ちゃんが可愛いからいじめてるわけじゃあないのだよ!

「今日オフなんだし、二人でペットショップ行って何飼うか考えようぜー。魚の飼い方の本とかも欲しいし」
「……わかった」
「良い子良い子―。いつかおは朝のラッキーアイテムがサンショウウオになったら二人で捕獲しにこうなー」
「絶対だぞ」
「はいはい、絶対、な。指切りげんまんー」

 よくわからない約束を取り付けつつ、取り敢えず、今日は二人でペットショップまでお出かけすることが決まった。やったね。

   *******

 インターネットで検索したら、車で気軽に行ける範囲にアクアリウム専門のペットショップがあったので、そこに行ってみることにした。所せましと並ぶ水槽と、その中で泳ぐ魚たちの様子は、まるで小さな水族館のようで、それだけでも楽しめた。

「真ちゃんは魚とか飼ったことってあるー?」
「無い。生き物を飼ったことがない」
「あー、そーいやそう言ってたね」

 高校のとき、真ちゃんなら変なトカゲとか飼ってそう、と言ったことがある。真ちゃんは「こいつは頭が悪いのだよ」と言いたげな目で俺を見たあと(真ちゃんの常識配分はよくわからない)、これまで何を飼ったこともない、俺一人で世話をできるわけでもないから、言い出せないのだよ、と語った。真ちゃんらしいなあ、と思った。今もそう思っている。
 真ちゃんは宝石みたいにキラキラ光る魚たちをじっと眺めていた。確かネオンテトラだっけ、と思って値札を見てみると、少し違う名前が書いてあった。いろんな種類がいるらしい。

「高尾は生き物を飼ったことは無いのか」
「うーんとね、小学校のとき飼ってたことあるよ。お祭りの金魚とか、カメとか、そんなもんかな。金魚はすぐ死んじゃったけど、カメは結構生きたかな。それでも中学のときに死んじゃったなー」
「犬や猫は飼ったことがないのか?」
「あー……妹ちゃんがね、嫌がるんだよね」

 真ちゃんは意外そうに眼をしばたたかせる。

「動物が嫌いなのか?」
「嫌いじゃなくて、むしろ好きなんだけどね、死んじゃうのが怖いんだって。飼いたがらないんだよ。金魚もカメも俺がお祭りでとってきちゃっただけだし」

 俺が小学校高学年で、妹ちゃんが低学年のときだったと思う。十月の週末に、冷たい雨が降った。お昼前に近所のスーパーに母親と三人で行った帰り道、俺たちはミャーミャーという甲高い声を聴いた。赤ちゃんが泣いているようにも聞こえる音を辿って公園の茂みをかき分けると、携帯電話より少し大きいくらいの、まだ毛も生えてきていない仔猫が、雨に濡れて倒れていた。俺と妹ちゃんは迷いもせず、その猫を家に連れて帰った。冷たい体を、母親がお湯につけてくれたタオルであっためた。冷たい雨にさらされて冷え切っていた猫の体温は、あっためるとだんだんと上がっていった。俺たちはそれに希望を持って、この猫が元気になったら飼いたいな、とか、この猫にどんな名前をつけようか、と か考えた。だけれど、夕方になると、猫はみるみるうちに体温が下がって行った。何を使ってあっためてもだめで、どんなふうに祈ってもだめで、八時すぎになったころ、母親は俺と妹ちゃんに、悲しそうに言った。死んじゃったねえ、と。俺たちは風船が割れたように、ぐしゃぐしゃに泣いた。
 それがトラウマなのか、妹は生き物を飼いたがらなかった。終わりを思いながら何かを見つめるのは、悲しいし、何よりもしんどいから。そんなことを語ってみると、真ちゃんはヒラヒラと美しさを見せつけるように泳ぐ魚たちを、散るのを待つ花のような魚たちを、じっと見つめながら、低い声で呟いた。

「生き物は、そういうものだろう」
「うん、そうね。でも妹ちゃんちっちゃかったしな。整理がつく頃にはペットどうこうで騒ぐ年じゃなくなってたんだろうな」
「……寿命は、戦術なのだよ。進化に必要不可欠な、バグを防ぐシステムだ」
「あのなあ真ちゃん、生き物が死ぬのが怖いっての、あくまで妹ちゃんの話だからな?頭んなかでごっちゃになってない?」

 けらけら笑ってみるが、真ちゃんからの返事はなかった。俺は、真ちゃんの横顔を覗きこむ。弾き返されるように視線が噛みあった。真ちゃんの視線が、居心地悪げに逸らされる。面白い。真ちゃんは、猫が嫌いなのに猫みたいな反応をする。ぷっと吹き出したら、真ちゃんの睫毛が少しだけ揺れた気がした。気のせい、知ってる。

「高尾、もう少し違うタイプの魚を見るぞ」
「はいはい、サンショウウオっぽい魚探そうなー」

   *******

 二時間ほどショップを見て回り、連れて帰ってきたのはプレコというアマゾン出身のナマズの仲間だった。我が家に来ることになったやつは小さめとはいえ、20センチほどもある。しかもこれからも育っていくらしい、ちょっと楽しみだ。水槽もそれに相応する大き目サイズだから、加湿器効果もさぞ期待できた。キモカワやブサカワなんかの単語がしっくりくる、のっそのそしたふてぶてしい熱帯魚を、さっきから真ちゃんはじいっと見つめている。結構な時間が経つと思うのだけれど、真ちゃんに飽きる様子はなかった。気持ちは、わからなくもない。真ちゃんに付き合ってプレコを眺めていると、俺にもだんだんこいつがかわいく見えてくる。このふてぶてしさ、ちょっと真ちゃんぽいかも、なんて思えてきた。ゲテモノ好きはお互い様だよなあ。

 とはいえ、真ちゃんがこの魚を家族にしようと思った決め手が、このぶさいくなフォルムだけじゃないのは、知っている。大切に育てれば、10年生きます。ポスターに書かれたその言葉を真ちゃんの視線がなぞったことに、俺は気づいていた。こっそり気づいて、飲みこんで、心臓の奥の方に仕舞った。

 大して動くわけでもないプレコを観察することにも飽きた俺は、買ってきたプレコの飼い方についての本をペラペラめくった。注意事項がいくつか書いてある。餌を絶やさない、水質に気を付けて。カレンダーで二人のスケジュールをチェックして、きっちり分担しなきゃな。何せ、二人とも忙しい。そろそろ黒子か先輩あたりに合鍵渡すか。うわそれぜってー迷惑そうな顔されるわ。

「高尾」
「なあに真ちゃん」
「餌は俺がやる」

 急な申し出に俺はぱちくりと瞬きをする。何なの馬鹿なのこの人、自分のスケジュールの過密さとプレコちゃんのデリケートさわかってんの。

「いや無理でしょ」
「お小遣いで、自動給餌器を買ったのだよ」

 そういって真ちゃんはしたり顔で自動給餌器を出した。いつのまに。っていうかそれ結構な金額しただろ。別に共同出資で良かったのに。確かにそれがあれば多忙な真ちゃんでも餌あげれるとおもうけどな、ちょっとは俺に相談してから動けよ。言いたいこととしてそんなことをリストアップしたけど、一番気になるポイントは別にあった。

「なんで真ちゃん、自分が餌やることに拘るの?」

 まず、そこだ。自分のお小遣い……っていうか手持ち金で給餌器を買うっていうのは、真ちゃんが自分で餌やりをするというアピールに他ならない。なんで、ともう一度尋ねる俺に、真ちゃんは、4万キロぐらいズレた答えを叩き返してきた。おい、地球一周したぞ。

「日常の水質管理は、お前に任せる」
「……いやちょっと俺の話聞こうか?」

 俺は俺らしくもない真顔で真ちゃんを見てしまった。ええと、あれだ、日本語がいいな、俺ネイティブ日本人だから。どぅゆげってぃっと?

 真ちゃんはというと、そんな俺のほっぺに両手を伸ばしてくる。もう年だし、男だし、俺真ちゃんみたいな二次元スペックじゃないし、肌は多少なりとも荒れているっていうのに、何が楽しいんだお前。真ちゃんは俺のほっぺたを軽くホールドして、こちらをまっすぐに見据える。そして、ヒロインにプロポーズする映画の主人公よろしくな表情で、こう言ったのだ。

「餌をやるのが俺で、水を見るのがお前で、二人で世話をしよう。大規模な掃除は、もちろん二人でやることにしよう。この魚を、二人でなかったら存在しないものにしよう。この命を、俺たち二人で育ててみよう。いずれこいつは死ぬだろう。そのときは、庭に埋めてやろう。次にこの水槽で何を飼うかはそのとき考えればいい。十年後に、考えればいい。何度も考え直して、それでも一緒に居たいと思うのならば、考え直すたびに、その気持ちを本物にしよう。終わるたびに、本物を見つけよう」
「……ぶっ」

 淡々とした言葉の連続に、俺は耐え切れず吹き出した。真ちゃんの目が俺を咎める。ごめんね、真剣に言ってるんだよね。わかってるんだよ、でも、いや、だってさあ。

「まるで赤ちゃんでも授かったみたいだな真ちゃん」
「……どちらも、生き物だろう。それと、別に、子供の代わりにしたいというわけではない。どちらかといえば、結婚式の代わりのようなものだと思っている」

 がたん。不意打ちの言葉に、俺はダイニングテーブルに頭を打ち付ける。さっきは耐えたけど今度は駄目だった。こいつは、こいつは、もう。もう。なんなのこいつ。好き。

 二人でなかったら存在しないものにしよう。真ちゃんの言葉を、ゆっくりと時間をかけて噛み砕いて、飲み込む。いろんなことに意味を持たせたがる真ちゃんにとって、これは挨拶の決まりと似たようなものなのだろう。「意味があること」で囲って、そういう彼らしい形で俺との関係を大切にしようとする、真ちゃんの気持ちがよく伝わってくる。指先から、耳元から、つたわって、つたって、心の内も外をも満たして、ひたひたと、ひたひたと。二人よがりでも、二人よがりだからいいや。二人占めできる幸せを、俺は丁寧に飲み干す。

 お前がいなかったらいなかった俺がいる。お前からもらったものはたくさんありすぎて、お前がいたから掴めたものも多すぎて、俺はそれらを数え切れないし、名前を付けきれない。お前がくれた俺はもう、心臓みたいなもんで、切り離して考えるのもバカバカしい。真ちゃんは、俺もそうだ、と言ってくれた。その言葉を俺は信じる。信じた。何度も疑って何度も信じた。切っては結びなおした糸にはたくさんの結び目がある。俺がやった小綺麗な蝶々結びを、真ちゃんが上から不格好なかた結びにして、そうやって、その逆もあって。お前からもらった感情と記憶と手のひら、お前に変えられた俺、俺が変えたお前。俺がいなかったらいなかったお前、お前がいなかったらいなかった俺。きらきらと身 体を駆け回る衝動。

 でもきっと、お前が必要、俺が必要じゃなくて。二人が必要、二人がいなくちゃいけない、そういうものが増えるなら。意味があるもので囲む、それが不格好な、かた結びでも。必死で格好が悪い足掻きだとしても。そうしたらもっと。

 きっと。

「なんなのお前、結婚式の代わり、ってなに」
「指輪の代わりでもいいが、指輪はもう渡しているから意味がないだろう」

 真顔でいうなアホ。

   *******

 それから一か月ほどが経った。加湿器、もとい水槽に、一日お日様の光にあてた水を入れるのが、俺の日課になった。今だって窓際のバケツを愛おしげに真ちゃんが眺めている。一か月前にもらった言葉を思いかえしては、俺は悶えたくなった。我が彼氏様はいちいち恥ずかしい。

 そういえば、プレコに名前がついた。じゅーちゃん。実はこれは、俺と妹が拾って、死ぬのを見届けた仔猫の名前だったりする。正確にいうと、仔猫につける予定だった名前。十月だから、じゅーちゃん。単純につけた名前は、十月が来るたびに付箋みたいに冷たい雨を思い出させた。でもそろそろ、恋人のだらしない寝姿に上書きされそうだ。ちなみにプレコを買いにいったのは十二月。知り合いに紹介するときは、十二月のじゅーちゃん、っていうことにしておいてる。由来がバレたのは、妹ちゃんにだけだ。
 
「ところでさ、真ちゃん」
「なんだ」
「せっかく加湿器ゲットしてエアコンに切り替えたってのに、勝手に床暖起動して床にへばりついてるのはどーゆーこと?寒いから床暖にくっつくって言ってたよな?エアコン動かしてんだから寒いわけねーよな?」

 ノンブレスで言うと、真ちゃんはのそりと寝返りをうつ。その姿はさながら爬虫類、っつーかどっちかって言うとナマズだナマズ。しんちゃんとじゅーちゃんは兄弟です、なんて。
 真ちゃんはのそのそ上半身を起こすと、俺をじっと見ながら言う。

「……床暖房が、お前に似ているのだよ」
「はー?」

 もぞもぞと語尾が小さくなる真ちゃんに、俺は眉根を寄せる。すると真ちゃんは、言いづらそうに、ためらいながら、小さな声で言った。

「……だから、その、床暖房にくっつく感覚は、お前の背中にくっつく感覚と似ているのだよ」
「え、あ、そうっすか……」

 急に発動したトラップに、俺の返事はしどろもどろになる。確かに、真ちゃんは三年ほど前まで、起き抜けに俺の背中にひっつく癖があった。それの相手をしていると料理がおろそかになってしまうから、一度こっぴどく怒って、禁止令を出したのだ。そういえば、禁止令、解くのを忘れていたわ。ほんっとうに、完全に頭から抜け落ちてた。道理でここ三年、朝ごはんを手際良く作れるわけだ。

 いつも通り真ちゃんがセットした温泉卵メーカーが音を立てる。俺はゆで上がったスパゲッティにソースと温泉卵を乗っけた。そして、ため息をついて。

「……床暖の上でじゅーちゃんごっこするぐらいなら、俺の背中に引っ付いてていいよ、もう」

 真ちゃんの目がキラリと光るのに合わせるように、じゅーちゃんのしっぽが翻された。