出前を頼めなかった高尾くんの話


「出前頼むけど、高尾は何にすんの」
「……え。もうそんな時間なんすか。ちょっと意識飛んでた」
俺が声量を上げてもう一度問いかけると、対面に座る友人――高尾は眠たげな顔を上げてようやくこちらを見た。
もう昼だ。前期ゼミ論提出明けの徹夜麻雀は、四人の大学生の自堕落な青春をスポンジのように吸い上げていく。
「決まってないの、高尾だけだから早く」
昨晩は飲み屋から俺の部屋になだれ込んで、そこから何時間もぶっ続けで卓を囲んでいる。そろそろ腹も限界なのだ。
「あー、じゃあカツ丼。あ、うな重? いや、やっぱ胃もたれそうだから玉丼にするわオレ。安いし」
高尾は鈍重に片腕を伸ばしてボロボロになった定食屋の品書きをちらりとだけ見て、ぼそぼそと言った。
「っんだよ、お前一人勝ちしてんだから高いの頼め。つか、敗者におごれ!」
「そりゃそっちが弱すぎるだけっしょ。わりーけど下手なフェイクは軽くお見通しよ? あ、ロン」
野次をいなした高尾の指がぱたりと牌が倒すと、ビールの空き缶に囲まれた座卓の周囲から一斉に悲鳴が上がった。
「またお前か!」
「ずりーぞ、何か見えてんじゃねーのかっ」
やいやいと騒ぐ級友を尻目に高尾は大きく伸びをする。サイズの合ってないパーカーが肩からずるりと滑り落ちた。
「寝落ち直前のくせに何連勝する気だ……」
この男――高尾和成とは1年の必修授業からの付き合いで、高卒から社会人入試の俺にとっては年下の友人だ。
話を聞けば体育会系育ちだとか。『今は同級生だから』と無理を言って敬語は外してもらっている。
飄々とした態度でゆるく構えながら、勝負事には鋭いまなざしを見せるこの男の底はどうにも窺い知れない。
ポーカーフェイスではない分タチが悪いのだ。本心を現さないように色々気を配っているのだろう。
「高尾。そういやそろそろ変人のルームメイト帰ってくるんだっけ」
「うん。あいつも週末はゆっくりしたいだろうから、帰ったら布団だけでも軽く干しといてやるかなあ」
「お前、母親かよ?」
笑い声が部屋に響く。この突っ込みももう何回目になるのか、高尾といる限り『オレのエース様』の話は耳タコだ。
ふああ、と高尾の口が大きく開いて、尖った犬歯が覗く。
眠たげにぽやんと緩んだ顔つきを見ていたら、こちらもついつい欠伸が零れた。
部屋に差し込む太陽はぽかぽかと暖かく、牌が並ぶ座卓は穏やかな光が満ちている。
彼女が来る前に片付けようと思っていたがゼミ論にかまけていてすっかり忘れていた。
「つか高尾、お前らまた喧嘩したとか言ってなかった?」
待て、その話題はまずいぞ馬鹿。
不躾な問いかけを受け、意外と細い指先にぞんざいに扱われた点棒ががちゃりと鳴った。
掃除不足で汚れた窓をぼんやりと見つめていた高尾は、一拍置いてから「まあね」とゆっくりと頷く。
「最近、いい加減うぜー時あるわ。ほんとに」
それはいつも通りの軽い言葉だったものの、一緒に吐き出された空気があまりに重々しくて、俺は内心で肩を竦めた。
「なら放っときゃいーじゃん。もうちょっと相手しろよ、お前勝ち逃げする気だろ」
「その変人くんだって小学生じゃねーんだから、高尾いなくても一人で何とかするって」
「ハイハイ、負け組は黙ってましょうね。ねえ、玉丼まだすか? 眠いから早く頼んでほしいんだけど」
連敗に溺れる奴らをけらけらとあしらった瞳にせかされ、俺は慌てて携帯の履歴を呼び出して店に電話をかける。
へらへらと笑う表情とは裏腹に、高尾は機嫌が悪いようだ。
ふむ、怒っている。でも相手は俺達じゃなくて、そのうざい『相棒』くん……いや、自分に?
違うかな。人の心を読むような能力はないから、人生経験が数年長じただけの単なる勘なのだけど。
「高尾、切るなら索子切れ。今なら間違いなく通るぜ」
「バーカ、お前の待ち牌はバレバレなんだよ。悪いこと言わないから筒子にしとけよ」
「ツモったからどっちでも関係ないね」
「マジで何なのお前!?」
ごめんまた勝っちゃった、と悪びれることない最年少の青年は確かに笑顔なのだが――
この男。ぱっと見は表情豊かで親しみやすいが、ある一定まで近付くと透明なガラスの壁に行き当たる。距離を保ちたがるというか……結局のところ向こうにある心はどうやったってさっぱり掴めない。
しかも頭が良すぎるせいか、たまにこうして妙にこじれて機嫌を損ねているときがある。
こいつ、こんな性格でルームメイトさんとは大丈夫なのかね? あ、うまくいってないから怒ってるのか。
高尾の地雷を踏んだらしく、自慢の役を潰された後も露骨にカモられ始めた二人を見て軽く溜息を付いた。
やれやれ、せめて自分だけでもこいつに振り込まないようにしたいものだ。
「20分くらいで来るってさ」
うまい飯でも食べて機嫌を直してくれよと祈りながら、通話を終えた携帯を床に投げ出して俺もまた牌を握った。

***

「高尾、夜は出前を頼むからわざわざ買い物に行かなくていいのだよ」
「は?」
冷蔵庫の中身を検分して献立を考えていたオレに、同居人の緑間真太郎は突然声をかけてきた。
「何それ、初耳なんだけど。ってか、ケータリングとかじゃなくて出前? 真ちゃん、頼んだことあんの」
「経験はない」
白い扉を閉めて振り向くと、眼鏡のレンズ越しにこちらをじろりと見やる仏頂面とまともに目が合う。
何でも泊まり込みの実験明けだとか。
シャツは幾らかくたびれてはいるが、どこか清冽な雰囲気は生まれ持った気品という奴だろう。
「だよね。ピザすら頼んだことない真ちゃんには敷居が高いと思うぜ」
「電話をするだけだろう」
「ま、そうだけどさ」
キッチンの壁際に追い詰められてるような体勢が嫌で、横をすり抜けて居間に向かった。折半で借りている部屋の間取りは狭くはない。が、195cmの男はちょっとした壁のようなものだ。目の前にあればわりかし邪魔である。
「出前は嫌か」
「別に。昼も頼んだばっかだけど、金持ちリッチ学生の真ちゃんと違ってオレは慣れてるし」
頼みたきゃ頼めばよくね、とわざと冷たく響くように言い捨てれば、緑間の整った眉がぴくりと上がる。
うわあ、真ちゃん機嫌悪そうですねえ。オレもだけどね。
緑間真太郎と高尾和成。
部活を引退して、高校を卒業して。バスケだって、そんなには出来なくなって。
二人を結んでいた繋がりの輪が段々に失われていった。
そこでオレ達は一緒に住むという道を選んだのだが、『バスケ部名物凸凹コンビ』『秀徳の光と影』と称されたふたりはとかく共通項というものに欠けていたのだ。
やれ翌朝の着替えはベッドサイドに置きたいだの、やれリビングのLEDは蛍光灯風の色合いは嫌だだの。
スリッパは起毛がいい。テレビは無音のニュースがいい。豆腐の木綿は嫌だ。ホットカーペットは嫌だ。
同棲生活をはじめてからわかった好みの違いは、取り上げてみれば些細なことばかりだ。
「メニューもあるが。見ないのか」
「どこの店だって大した違いないっしょ。オレ、担々麺。なければ普通のラーメンでいい。七味かけるから」
「前から思っていたが、お前の調味料の使い方は度を超えているのだよ。見てられん」
(そう、あんまりにも細かいことばっかだからさ)
塵も積もれば何とやら。
少しずつの『違い』を積み重ねて、カケラも似ていないオレ達の存在は構成されているのだと思い知ってしまう。
それでも高校では一緒に行動する理由があった。部活だったりクラスだったり、何よりバスケがあったから。
というより、チームを率いる上ではむしろ異なる個性が望まれていたのかもしれない。
タイプの違いは良い結果に繋がることが多かった。
……恋人という関係性が加わってからも、あの頃はそれなりにうまくいっていたと思う。
しかし、高尾和成の人生と緑間真太郎の人生はもともと全く違う方向に進んでゆくものなのだ。
二本の矢印が交わっていたのは、あのバスケットコートで共にした三年間のみ。
(でもさ、その一点はもう過ぎて、終わってしまった)
色も形も目的地も違う二本の線の先端を歩いているオレ達の距離は日に日に離れていくようだ。
誰よりも知り尽くしていると思っていた姿が曇りガラスのように霞んでいって、じわじわと朧げになっていく。
「高尾、他には」
「もう高校生じゃねーし、そんなに食えないって。なあ、急にどうしたんだよ、出前なんて」
新規開店のダイレクトメールで興味を持った訳じゃない。
横目で盗み見たメニューはただのコピー用紙で、きちんとした店の印刷物ではなさそうだ。
「黒子に勧められてな。メニューもあいつの部屋にあったものをコピーしたのだよ」
「黒子?」
「昼に話す時間があった」
おとといの夜、オレが電話した時は「悪いが、今は手が離せない」とあっさり切られている。
「ふーん、何かお悩み相談でもしちゃったの、真ちゃん」
激動の高校三年間を通してキセキの世代の絆は本当に深まった。いや、昔に戻ったというべきか。
稀有な才能に恵まれた者同士、同中の友情というのは端から見守っていて本当に微笑ましい。
一人では広すぎる居間のソファにぼふりとオレは腰掛けて、見る気のないテレビの電源を入れた。
「……相談、という程ではないが。『そんなに不満なら出前でも頼んだらどうですか』と言われたのだよ」
「へえ」
背中の後ろで緑間は携帯を片手にメニューの文字を慎重に追っている。
ペラペラのコピーを表に裏にひっくり返しながら電話番号を入力する手つきは随分とぎこちない。
そういやこいつこれから電話するんだっけ、とテレビに目を戻す。ミュートのままだったので問題はなさそうだ。
画面の中では真面目な顔をした男性キャスターが口をぱくぱくと開閉していて、随分と間抜けだなと思った。
例えるならガラス越しのパントマイムか、又は水槽の中の熱帯魚のようとでもいうか。
(うっはは、何言ってるかさっぱりわかんねー)
――その変人くんだって小学生じゃねーんだから、高尾いなくても一人で何とかするって。
知っている。
ボールより重い物を持ったことのない箱入り息子と昔はさんざっぱらからかったし、実際それなりに的を得ていたのだが、緑間という男はこれと決めたことは愚直にやり抜く男だ。初期パラメータは限りなくゼロだった家事能力も、今では男子大学生としては十分褒められるレベルに達していることを、オレは誰よりもよく知っている。
もちろん、緑間自身よりも。
「すぐ来るらしいのだよ」
「了解なのだよ」
「真似をするな」
聞き飽きたやり取りを済ませて携帯をポケットに仕舞った緑間は、冷蔵庫を開けて麦茶のピッチャーを取り出した。
続いてガチャガチャと音がしているから、グラスも洗い棚から用意しているのだろう。
「箸は必要なのだろうか」
テーブルの傍に立った緑間から質問をされた。オレは振り向かずにテレビの男の動く唇をじっと観察している。
「ん、多分割り箸ついてくると思うから平気じゃね」
「そうか」
緑間が静かに椅子に腰掛ける姿を頭の片隅で捉えるけれど、やはりどうしても振り向く気がしない。
最初の夏に買った揃いのコップを、今だけは本物の目ん玉の視界に入れたくなかった。
不満。
(先輩、出前食って『久々にまともなもの食った』って何だかすごく喜んでたなあ)
彼女を愛しているけどとにかくメシがまずいと泣き顔で学食で突っ伏する奴は他にも何人か知っていた。
出前で解消する不満なんてそんなものではなかろうか。たとえば買い物や片付けをしなくていいなんてのは、料理をしない緑間には関係のないメリットだろう。
(ねえ、真ちゃん)
誰かに相談するくらいなら直接言ってくれよ、というのはあまりに女々しい泣き言だけれど、今この瞬間、お前の向かいで空いている椅子とオレの隣のソファスペースに想いを馳せてしまうのも大概だ。
昔はどうして恐れを知らずに踏み込めたのだろう。
昔はどうしてお前の光をまっすぐ見られたのだろう。
(真ちゃん、あのね)
もう高校生じゃねーし。時間を経て曇ったこの瞳では人の気持ちなんてわかるはずがない。
ずきりと痛んだ左手の小指から意識して強引に目を逸らす。
ガラス張りの水槽の中で平然とニュースを読み上げる男の顔を見据えて、大きく大きく大きく息を吸う。
オレの方が酸欠になりそうだった。

がたん、と緑間が席を立つ音で目を覚ました。
キャスターを眺めているうちにうたた寝してしまったらしい。テレビ台の時計によれば20分弱といったところか。
伸びをすると、運動不足の筋肉がきしきしと鳴った。正直まだ眠い。
最近はレポートとバイトのヘルプ続きであまり睡眠時間を確保できていなかった。
徹麻は断った方がよかったのかも、と今になってうっすらと後悔する。
今日だって本当は布団を干した後で緑間が食べられるものを作るつもりだったのに、洗濯物を取り込んだところで今みたいにソファに倒れて寝てしまって。
(で、起きたら真ちゃんがいたから慌てて冷蔵庫の中身を――)
がばりと身を起こすと、緑間が玄関に向かうところだった。
「あっ、ねぇ真ちゃん、これ」
「後で構わん」
緑間はオレの横をそのまま通り過ぎて行って、ポケットから取り出した千円札は宙に浮いてしまった。
無性に虚しくなって、その手でそのまま乾燥した寝起きの瞳をぐしぐしと擦る。
ぱさりと軽い音に合わせて視線を落とせば、床にタオルケットが拡がっていた。
財布を出そうと焦って身体を起こした時にソファからすべり落ちたのだろうか?
オレは少し迷ってから、一応畳んで自分の横に置いた。
(ってか、洗濯物は全部片したはずだったのにこんなとこに置き忘れ? はは、高尾くんダッセ)
エース様をサポートする相棒なんて胸を張れたのは、あくまでバスケと高校生活に関してのみだった。
家事はやはり実家の母のようにはうまくいかないし、緑間の偏屈な態度を周りにとりなす機会だってもうない。
あの時と違って同じ場所にいないオレ達は、違う方向に向かっているオレ達は、どんどん離れていく。
「高尾、冷めてしまうから早くいただくのだよ」
会計は問題なく済ませたようで、緑間が部屋に戻ってきた。
オレが手を出すまでもなく綺麗に片付いているテーブルに、木製の盆ががちゃりと置かれる。
「箸、付いてきた?」
向かい合った席につくと、答えの代わりに簡素な割り箸と漬物がずいと差し出された。
「小皿は丼物用だから、それ多分真ちゃんのだよ」
「辛いのは好みではないのだよ」
(オレは好きだよ、真ちゃん)
いただきます、と二人で礼儀正しく手を揃えてから箸を持つ。
熱で器に張り付いたラップを注意して剥がすと、途端に溢れ出した湯気で垂れた髪がぶわりと膨らんだ。
「ずいぶん伸びたな」
「出前ならこんなもんじゃねーの」
自分で作るのとはやはり味付けが異なるものだ。薄味のスープをレンゲで掬う。
胡椒でも台所に取りに行こうかと一瞬迷ったけれど、何だか面倒になってそのままズルズルと麺を口に放り込んだ。
緑間はどんな味が好むのだろうとあれこれ買い揃えた調味料の山。
「違う、お前の髪だ。近いうちに短く整えるといいのだよ」
前に切ったのは二人で映画を見た日だったな、と数か月前の思い出が頭をよぎる。
「バスケしねーからこんくらいの長さでもいっかなって思ってたんだけど」
「お前には似合わないのだよ」
もう高校時代とは違うんだって、という言葉をオレはもぐもぐと咀嚼して飲み込む。
今は似合わないのだよ、きらきらと輝くエース様の隣なんて。
「それ、おいしい?」
「悪くはない」
緑間が頼んだのは天丼だ。油の管理が面倒でなかなか家では作らない……いや、オレには作れない。
何も考えないように黙々と箸を動かしていたら、会話もないまま完食してしまった。
緑間のコップが空になっていたので麦茶を注いでやる。
「すまない」
ピッチャーをテーブルに置いたら、思ったより重い音が響いて驚いた。
「真ちゃん、休みだからって別に無理して家で飯食わなくていいからさ。外で食べてくれば楽だろ」
緑間は注がれたグラスに伸ばした腕を止めてやけにゆっくりと瞬きをした。
「突然どうしたのだよ」
「いや、昔のお前に比べりゃマシってだけでオレだって料理うまいってわけじゃねーもん。今日みたいに寝過ごして作り損ねたりするし。第一、泊まり込むくらい研究で時間ないのにわざわざ帰ってくんのも大変じゃん」
どうせ出前を取るなら家に帰ってくる理由もないはずだろ、と付け加えようとして、こいつの大学じゃこういう店は浮くかもなと思い直した。バイトにかこつけて覗いたキャンパスは、随分と洒落ていた。オレの大学ならともかく、ああいう雰囲気だったら蕎麦屋の出前は難しいかもな。
(でも周りにいろいろ食べられそうな店はあったし……あ、ヤバい)
人より広いオレの視界には気付きたくもないものも飛び込んでくる。
あの日に垣間見た緑間と「おともだち」の姿を思い出してまた気が滅入ってきた。
食べ終わった丼を盆の上に戻して、テーブルを台拭きでざっとぬぐう。
「この部屋、オレの大学との中間地点にしちゃったから通学時間かかるっしょ? 体壊しても大変だしさ、半日休む為に無理して帰ってこなくたっていいじゃん」
多忙なお前と一緒にメシが食いたいなんて、オレ一人の純然たるエゴなのだし。
「……どうして、お前はそうくだらないことを考える」
かあ、と頬が熱くなるのを感じた。
「先に文句言ったのはそっちじゃん。家の食事に不満なんだろ」
「高尾の作る食事に不満なんてないのだよ」
「はあ? じゃあ何で黒子に相談してんだよ!」
よりにもよって、どうしてあいつなの。
図らずも口からぽろりと零れた言葉に緑間が面食らったのがわかる。オレもだけどね。
『同族嫌悪』なんてラベル押し付けて一方的に敵視していた時代はとっくに過ぎ、学校は違うけどそこそこ仲のいい友人として付き合っていたつもりだったけれど、やっぱり心の底には黒いべたべたした何かが今でもこびり付いている。
たまらずにごしごしと両手で目蓋を擦ると、光の粒がちかちかと生理的に散っていく。
(今でもオレは、やっぱりキセキが怖い)
いや、怖くて怖くてたまらないのは、緑間真太郎の輝かしい才能と将来か。
もう高校生じゃねーし。夢だけを見ていられなくなってしまった。
お前の足元の線がどんどんオレから離れていくのがどうしても見えてしまうのだ。
「……なんつってな。わりー、寝不足で苛々してるみたいだわ。コンビニでも行って頭冷やしてくるから、真ちゃん食べ終わったらもう寝なよ。後で器洗っとく」
緑間の顔を見ないようにして席を立つ。
(ああ、その前に金払っとかないと)と財布のあるソファに足を向けた。
いや、向けようとしたところで、背後に妙な気配を感じて全身の毛がぞわりと逆立つ。
自慢の鷹の目が捉えたのは、195cmの『壁』が倒れかかってくるところだった。
(へっ?)
視界がぐるりと反転した。
オレの全体重を受け止めたソファクッションから、ぎしい、と乾いた軋む音がする。
変な体勢で倒れこんだ全身に予期せぬ衝撃が走り、情けない声が喉から漏れた。
緑間に押し倒されたと気付いたのは、上に乗ってきたあいつの指にそっと頬をこすられてからだった。
「ちょ、ちょっと何? どうしちゃったの、お前」
「お前はオレに心配すらさせてくれないのか」
見上げた緑間は真剣そのもの。高校時代、毎日何十回も見たボールを手に集中しているときのようだ。
「し、真ちゃん」
「いいから黙って聞くのだよ馬鹿」と、緑間は一文字一文字を区切るようにゆっくりと発音した。
「オレが大学に泊まり込むのは、騒音の都合で夜間しか動かせない研究機器が多いからなのだよ。昼間は比較的自由に使える時間も多いし、研究室の手伝いがアルバイト代わりだから空き時間も効率よく作業できている。だがな」
オレの顔から一旦外れた左手は、傍に置かれたタオルケットを掴んですぐに戻ってくる。
そのままばさりと薄緑の布はオレの肩に掛けられた。
「だがな、高尾。中間地点で部屋を借りたのだから通学にかかる時間は同じなのだよ。それならばフィールドワークであちこち飛び回ってる分、お前の方が客観的に忙しいはずだ。バイトも人の分までシフトに入っていると聞いた」
そりゃ真ちゃんの大学に近いルートを通りたかったからなんですとは言い出せない雰囲気だ。
「顔を見れば疲れているのはすぐわかる。それなのに高尾、今日だって何もかけずにこんなところで寝て、風邪でも引いたらどうするのだよ。自己管理はしっかりしろ」
(お前、母親かよ?)
ここまできて、やっとオレは緑間の意図に気付いてしまった。
「オレが気遣う以上にお前自身も自分を気遣え……何だ、妙な顔をして。おかしいか」
どこまでもまっすぐで、どうしようもなく不器用なオレのエース様。
「いや、何でもねー。心配してくれてありがとな」
「ああ」
話は終わりとばかりに、ぐいと伸ばされた長い腕にタオルケットごと囲い込まれる。
髪が乱れるのも構わずに頭を襟刳にぐいぐい押しつけてくるのでどうにもくすぐったい。
「寂しがらせちゃってごめんね真ちゃん」
「……ああ」
やべぇ、今までに五本の指に入るぐらいにデレてるよこの人。
「真ちゃん。この体勢はフレームが当たって痛いのだよ」
「うるさい。見えなくなるから、外したくないのだよ」
回された両腕にさらにぎゅっと力がこもって、何てかわいい奴だと愛おしくなった。
「真ちゃん、オレも寂しかった」
せめて窮屈な顔の向きを変えようとしたら、長くなった髪を引かれてそのまま首筋に噛みつかれる。
「……っは、あ」
肌にかかる吐息の熱が体を駆け巡る。
刺激にひくりと揺れた内腿は我ながら現金で、このまま久しぶりにここでするのもいいかと思った。
向こうも事情は同じようだ。シャツの裾から入ってきた掌がきわどいところを撫ぜてくすぐったい。身体が跳ねる。
(あ、でも)
「せっかく布団干したんだけど」
雰囲気を壊さぬよう形のいい耳にそっとつぶやくと、気忙しげにあばらの上を這っていたあの指がぴたりと止まる。
「フン、使ってやらないこともないのだよ」
解けた腕の拘束が名残惜しいと思う間もなく、左手を強く引かれてつんのめりそうになりながらソファを降りる。
寝室の方に引きずられるように歩きながらオレは堪えきれなくなって笑い出した。
「おい、さっきから何なのだよ高尾」
「いや、真ちゃん。だってさあ」
振り返った緑間は険しい顔で、レンズで瞳も半分隠れてしまっているけれど、筒抜けなんだよ真ちゃん。
オレの『光』は、あの時も今日もこんなに眩しい。
考えてみれば見るほどオレ達は全く似ていないし、これからの人生で正反対の道を進んでいくのだと思う。
(でもこうやって手を繋いだままなら、ずっと離れないでいられるよな)
乾いたシーツに寝ころびながらそんな甘ったるいことを考えて、今度は自分からキスをした。

***

「出前頼むけど、高尾は何にすんの」
あれ。前にも同じ台詞をこいつに言ったような、そんな既視感に俺は首をひねる。
口頭発表後の明けの徹夜麻雀は、四人の大学生の自堕落な青春をゼラチンのようにぐずぐずに固めていく。
「おい、高尾」
重ねて問うも応答はない。
朧げに思い出してきた初夏ごろの記憶の光景と違い、本日のトップ雀士は完全に寝入っているようだ。
「こいつ、例の友達が今日帰ってきたんだっけ」
「昨日じゃね? 『ゼミ室乗り込んで冷蔵庫片付けさせたら実験とか速攻で終わって教授さんが飯奢ってくれた』とかわけわかんねーことさっき言ってたぞ」
「何だそれ。台所綺麗にして運気アップなのだよ的な風水か。あれ、占いだっけ。駄目だ、熟睡してんなこいつ」
一度も会ったことない男の口癖まで俺達が覚えるほど思い出を語り尽くした高尾は死んだようによく寝ている。
ほんの出来心で、乱れた髪に白く覗いている首筋に俺はチューハイの空き缶をぴとりと当てた。
「う、あ。冷た」
寝ていると余計に幼く見える男は、未だ目を閉じているものの、もぞもぞと反応を示す。
「起きろよ高尾。牌崩れてんぞ」「3分以内に起きないと不戦敗だからな」「黙れビリ」「何だよブービー」
下位二人の戯言はさておき。高尾の席はちょうど陽が当たる辺りだが、このまま寝冷えさせるのもよろしくない。
へこんだ缶を卓袱台に置き、くてんと伏した肩を強めに揺すった。
「腹減ったから早く起きろってば。注文何にするんだよ」
「んー。あと一時間だけ」
「いや、それは待たせすぎ」
言い訳は止そう。ぶっちゃけ空腹で死ぬ。コンビニで買ったツマミはとっくに傷心の胃袋が消化してしまっている。
俺の声から逃げるように深い緑色のカーディガンの長い袖口にぐりぐりと顔を埋めていく高尾。
そういえばこいつはやけに大きいサイズの服ばかり着ているときがある。連休明けとか。
「えい、起きるのだよ。出前を頼むのだよ高尾」
チラシで額をぱしぱしと軽く叩いてやると、ようやく薄く開かれたオレンジ色の瞳は二三度瞬きをする。
「出前、今日もたのむの」
「そうなのだよ、もう俺は腹ペコなのだよ。早く決めるのだよ、高尾」ずいとメニューを差し出す。
実際に真似てみて初めてわかったが、この語尾は予想以上に不自然ではなかろうか。凄い奴だな、エース様。
高尾は目前に差し出された紙をしばらく焦点の合わない顔で見つめて、ぼそりと言った。
「鴨せいろ」
「はいはい、鴨せいろ二つ目なのだよ。他は、いらないのか」
「だいじょうぶ」
注文を決めるのが早くて助かる。そういえば、こいつも最近家で出前を頼むことが多くなったと話していたな。
彼女の芳しくない手料理の反動で虚しく出前に入り浸る俺と違って、随分楽しそうにメニュー表を集めていた。
携帯の発信履歴を呼び出しながらオーダーの確認をする。カツ丼1、天そば1、鴨せいろ2。
「じゃあ、注文してるうちにオレ先に風呂用意しとくよ」
「ん?」
妙な呟きに目を向ければ、意外にもきちんと爪を切り揃えた高尾の指がカーディガンのボタンにかかっていた。
はっきりした口調だが頭の中身は半分夢の中なのだろうか。
小さめの欠伸を幾度か漏らす姿をよく見れば、最近短く切ったせいか、寝癖のハネが以前よりもひどくなっている。
「真ちゃんは電話終わってから来てくれればいいからさあ。そしたら出前来るまで一緒に入れるし」
「やめろ、そこで止まれ高尾!」
昼メシ時でなかなか店に繋がらない電話を耳に当てたまま、インナーにまで手を伸ばし始めた男を俺は慌てて止める。
待て。ちょっと待て。
考えさせろ。
家で出前頼む度にお前達はそんな会話やっているのか。何かの隠語か。そういうプレイか。
焦る俺の声に反応して更に一度瞬きをした寝惚け眼が、部屋の中の俺達3人の顔を順繰りに写していく。
一瞬の間があった。
締められた鳥のような聞き取れない声を上げて、高尾和成は勢いよく跳ね起きる。
「え、え。あれ。だって今、真ちゃんが出前って。ちょっとマジ待って。オレなんか言った? 寝ぼけて言った?」
言ったね言ってたね、と内心で力強く頷く。
「えー。ちゃんと聞いてなかったけど、風呂入りたいとか何とか」
「寝冷えでもしたんじゃねーのか。先輩にシャワー借りてけば?」
何故俺の部屋の風呂をお前らが勧めているんだよ。ではなく。
お前らが相変わらずお互いの話しか興味なくて今日ばかりは安心したよ。でもなく。
左右二人に見切りをつけた高尾の視線が向かいに座る俺にまっすぐに向けられる。顔色がどんどん変わっていく。
「ねえ。オレ、何か変なこと言ってないよね。ないです、よね?」
先日振られてから一念発起して大掃除した窓から注いだ太陽光が、きらきらと向かいの男の黒髪を照らしている。
なぁ、高尾。
数ヶ月前に危惧したように、この男の笑顔はガラスみたいなところがあって、ある一線からは容易に人を近付けない。
「先輩。あの、お願い。なんか言って。怖いから笑ってないでマジで何とか言って!」
しかし、透明だからこそ中できらきらとした輝きはどうにも隠しようがないわけだろう。
人の心を読むような能力はないから、人生経験が数年長じただけの単なる勘なのだけど。
血相を変えて問いかけてくる年下の友人に、俺は大きく溜息をついてから営業時代に鍛えたとびきりの笑顔を整える。
付け加えるならば、失恋したばかりの男はそこら辺の女性よりこういった話に敏感なのである。
「さっさと帰って、家で緑間さんと出前食ってろ」
そして二度と人前で出前を頼もうとするんじゃない。
お前がいくら隠そうとしてもな、そんなに顔を赤くしていたら、恋心の光なんてガラス越しに筒抜けなんだよ高尾。

それから数分後。
ようやく繋がった電話は雑音がひどく「いや、鴨せいろはひとつでいいです」とオレは何度も繰り返す羽目になった。




◆◆◆◆




そうですか。無駄に拘束時間の長い教授の実験のせいでめったに帰れなくて辛いんですか。電話できちんと話す時間もないんですか。たまに会う高尾くんが疲れた顔をしてて心配なんですか。それ、高尾くんに言いました? 相変わらずですね。しかも高尾くん、そんなにヘトヘトなのに緑間くんが帰ってくるとちゃんとご飯作ってくれるんですか。君はその度に愛する人と一緒に食卓を囲む幸せを噛みしめてるんですか。それはよかったです。おめでとうございます。これから誠凛のみんなと会う約束してるので、僕もう帰りますね。あれ、シェイクのお代わりありがとうございます。実験器具と同じ冷蔵庫から出てきたのがちょっと気になりますがいただきます。ごちそうさまでした。それじゃ失礼します。冗談です、何ですか。手料理は本当に嬉しいけれど買い出しや片付けで高尾くんの大事な時間を使わせてしまって申し訳ない、と。きっとそれも高尾くんに言ってませんよね。僕は君がやっぱり苦手です。かといって外食は、はい、余計に彼を疲れさせてしまいそうだから駄目なんですね。あれ、違うんですか。店までの往復時間だって夜は惜しいのだよ? 何にですか。ああ、やっぱりいいです、聞いた僕が馬鹿でした。そっちは高尾くんに言わなくていいですからね。帰っていいですか。あ、ありがとうございます。僕、思ったんですけどその教授の実験が遅れてるのって緑間くんが資材の代わりに冷蔵庫にバニラシェイク詰めてるからなんじゃないでしょうか。三本目ですよ。なるほど、普段はおしるこを入れてるんですか。君はやっぱり高校三年間で高尾くんに甘やかされすぎですね。はあ。高尾を馬鹿にするな? 台詞の行間を読んでください。緑間くん、実は意外とコロコロ鉛筆で現国のテストを乗り切っていたクチなんですか。割とがっかりですよ。機器のモニター画面ばかり覗いていてはわからないと思います。同棲をはじめる時のあの四時間半の決意表明はどこに行ったんですか。えっと、つまり高尾くんと食事はしたいけど作らせてしまうのは申し訳ない。外食は時間がもったいない。しかし自分で作るのは論外。……そこで開き直られると正直、面食らってしまうのですが。もう高校生じゃありませんし、君はご家族と高尾くんに感謝した方がいいですよ。何と言いますか、要は部屋でずっといちゃいちゃしていたいんですね。はあ、そんなに不満なら出前でも頼んだらどうですか。