向かい合わせでいただきます


 帰ってきたらまず真っ先に、軽く研いだ米を炊飯器にセットする。タイマーを一時間後に合わせて、スイッチオン。炊きあがりにかかる時間は大体40分だから、こうしておけば20分の浸水時間もとれる、って寸法だ。今日も元気に動き始めた炊飯器くんを前によし、と気合いを一つ。
 無洗米というのは実に便利なシロモノである。米とぎなんてたかが数分、と思うなかれ、その数分が疲れて帰って来た時や動くのはしんどいときにはこれ以上なく億劫だったりするのだ。冬だと水も冷たいしね。それにこれなら、さすがの真ちゃんも失敗しようがない。忘れるはずもない高校一年生の夏合宿、米を研いでおけ、と言われて洗剤を取り出すというお約束なボケをかましてくれたのは未だに俺のトラウマの一つだ。さすがにもうそんなことはやらかさないだろうけれど、二人暮らしを始めて間もない頃にご飯を炊いておいてくれ、と頼んだら盛大に米を散らされたこともあった。お前な、お米には七人の神様が宿ってるんだぞ。粗末にしたら罰当たるぞ。と、珍しく強く言った俺に、真ちゃんはちょっとだけ気まずそうにしていた。わざとやったんじゃないってわかってるから、その話はそこでおしまい。最初に買った5kgの米袋がなくなって以来、我が家はずっと無洗米だ。俺も楽だし、一石二鳥、ってな。
 さて、今日の夕飯は何にするか。メインは決まっている、豚の生姜焼き。もちろんたまねぎたっぷりで。出かける前に冷凍庫から冷蔵庫に移して置いた豚肉はまだそのままにしておいて、とりあえず小鉢系を先に作ってしまうことにする。一日350gの野菜を取りましょう、なんて言うけれど、いざやってみるとなかなか大変だ。それ以外にもたんぱく質とか、脂質とか、ビタミンとか食物繊維とか? 自分の身体に必要なものを調整しながら摂取する、っていうのは、意識してやると存外難しい。バスケは離れてしまったからそこまで神経質になることもないのかもしれないけれど、真ちゃんの大学生活はなかなかにハードだ。相変わらず人事を尽くす相棒の為に、やれることはすべてやっておきたい、ってね。
(……つっても今日そんな時間ねーんだよなー。この間作り置きしたきんぴらがあったからそれ出して、みそ汁はきのこで作るだろー? きんぴらと醤油かぶるから、生姜焼きはオイスターでやって……)
「……一汁三菜、一汁三菜……」
 呪文のように唱えながら、冷蔵庫の中身を吟味する。豆腐を発見したので自分用にキムチ冷や奴を、真ちゃんには特製のネギだれをかけた温豆腐を作ってやることにして、これで三品はクリア。だけどやっぱり野菜が足りない。朝は時間がなくてトーストにコーヒー程度だったし、昼だって真ちゃんのことだ、適当に済ませている可能性は大いにあり得る。人事を尽くすはずのエース様は、案外食に対してずぼらだ。出されたものは何でも美味しく食べるけれど、自ら動くことはほとんどない。学食でよく頼むものを尋ねてみたらうどんかそばかラーメン、と返ってきた。すぐ食べられるから、だそうだ。あいつその内、忙しさにかまけて全部カロリーなんちゃらとかウィダーインなんちゃらですませるようになるんじゃねぇかな。まだ大学生のうちでこれなのだから、なかなかに先が思いやられる。社会人でめちゃめちゃ忙しくなったりしたらどうするのかね、あいつ。まぁ俺がそんな味気ない食卓にはさせませんけどね。
「お、キャベツはっけーん。あ、水菜もあるじゃん。あとはー……ん、これこの間真ちゃんとこから送ってもらったじゃこか」
 男二人暮らしだけれど、冷蔵庫の中は割と充実している。双方の実家から定期的に送られてくる支援物資ならぬふるさと便のおかげだ。ふるさとも何も、うちも真ちゃんの家も典型的なサラリーマン家庭なわけで。別に実家で米だの野菜だの作っていたりもしないわけで。しかもお互い、電車で一時間とかからない都内に住んでいるから特に地元の名産品、なんてものもない。それでも定期的にふるさと便は送られてくる。母の愛、ってやつだね。おかげで食費はだいぶ助かっています。ありがとう母さん。そして真ちゃんママ。
 何せ男二人となると、エンゲル係数がえらい高い。真ちゃんなんてあんな綺麗な顔してそれはもうめちゃくちゃ食う。部活やってた時に比べれば多少は減った方だけれど。というわけで本日の生姜焼きも厚切りロース肉、なんて贅沢は出来ません。100g98円の薄切りモモ肉二人分で占めて500g。だけどこのごちゃっとした生姜焼き、俺は案外嫌いじゃない。たぶん、真ちゃんもね。お肉大好き、男の子ですもの。
 キャベツの葉を何枚か剥いて、大量に作った千切りをザルへ。軽く洗って冷蔵庫に入れて、まずは一品。って、一品、って言えるようなシロモノじゃないけれど。水菜も軽く洗って食べやすいようにざくざくと切っていく。特に葉の部分は念入りに。雑に切ったせいで残ってたでかい葉が喉に張り付いて死にそうになったのは、何を隠そう数年前のこの俺です。死因:水菜とか間抜けすぎて笑えない。これも水を切って冷蔵庫。あとで大根と炒りじゃこでサラダにする。ドレッシングは柚胡椒。うん、なんか調子出てきたぞ。

「今帰ったのだよ」
 味噌汁がちょうどいい感じに出来あがった頃、玄関のドアがガチャリと開いた。続けて聞こえる、真ちゃんの声。ちらっと炊飯器を確認すれば、炊きあがりまではあと10分。うん、ジャストタイミング。一度火を止めたみそ汁の鍋はちょっとずらして、フライパンを用意する。10分ほど前にオイスターソースと酒、それからしょうがを全部目分量でぶっこんで肉をつけこんでおいた生姜焼き予備軍さんも用意して、真ちゃんが部屋に入ってくるなりくるりと振り向く。おかえりあなた、もうすぐごはんができるわよ、なーんつってな。きゅっと眉を寄せて嫌そうな顔をした真ちゃんは、手洗いうがいをしてくるのだよ、と言って洗面所へ向かって行った。相変わらず、真ちゃんてばこの手の冗談に弱い。
(オイスターだからー……ごま油だな)
 フライパンにごま油を入れて、火をつける。テフロンって空焼きしちゃいけないんだってさ。だから火をつけるのは油を入れてから。熱したフライパンに〜ってあれは、鉄製特有のものらしい。ちなみにオイスターソースを使った生姜焼きは、うちの母親が手抜きしたい時にやっていたもの、らしい。材料三つで確かにお手軽だ。
 油があったまった頃合いを見計らって、まずはつけこんだ玉ねぎを一気に投入。瞬間、香ばしくていい香りが立ち込める。煙も出てきたので、換気扇もスイッチオン。カラカラと回るレトロな換気扇の音を聞きながら、俺はまた、真ちゃんが部屋に入ってきたのを確認する。
「真ちゃん箸並べといてー。あ、あと冷蔵庫にサラダ入ってるから盛ってくれる?」
「ん」
 短く返事をして、真ちゃんは素直に食卓の準備を始める。水菜と大根のサラダは、混ぜておいてしまうと大根の水気が出ちゃうから全部あとのせ。不器用に盛り付けている姿につい笑ってしまいそうになって、すんでのところで堪える。おっと、もう玉ねぎがいい感じだわ。
 くたっとなった玉ねぎの上に並べるように肉を入れて、軽く炒めて蓋をする。蒸し焼き風、ってやつ。こうした方が肉が柔らかくなる気がして、俺は好き。火の通りも早いし。
「高尾、ドレッシングはどうするのだよ」
 冷蔵庫を覗きながら、真ちゃんが言った。俺と真ちゃんの味覚の好みは微妙に違うので、サラダなんかの味付けを別にするもの時には必ずそう尋ねられる。さっき作った柚胡椒ドレッシング(鳥がらスープと醤油と柚胡椒とごま油を混ぜただけ。超簡単)の在処を教えて、俺は再びフライパンに戻った。よし、生姜焼き完成。火を止めて皿を用意し始めたところで、ごはんの炊きあがりを知らせるやたら陽気な音楽が鳴り響いた。毎回思うけど、普通にピーとかでいいのにな。なんでキラキラ星なんだろな。
 するとしゃもじを持った真ちゃんが、いそいそと炊飯器に向かう。飯もまともに炊けないうちから、これは真ちゃんの習慣だった。炊きあがったらしゃもじでごはんをかき混ぜて、むらす。そうしないと下の方のご飯が潰れてしまうのだよ、とどこか得意げに語られた時には、ちょっとこの人本当にどうしてくれようと思った。だって米も炊けないくせに、すごい嬉しそうに話すんだぜ? なんでそう、随所随所で可愛さ持ってくるの。俺をどうしたいの。
 というわけで真ちゃん直々にかきまぜられたご飯のむらし時間を待つ間に、食卓に料理を並べていく。千キャベをこんもりと添えた生姜焼き、きんぴらは面倒だから大きな器にどーんと。それから豆腐、真ちゃんがよそってくれた水菜と大根のじゃこサラダ。おぉ、なんかめちゃめちゃ豪華だぞ。一汁三菜どころか五菜じゃん。最後に冷凍保存してあるキノコを適当に入れて作ったみそ汁を並べ終えたところで、真ちゃんがごはんをよそってきてくれる。うし、オーケー。今日も上出来。
「……あ、真ちゃん。今日飲む?」
「ん?……そうか、火曜だな」
 今日は火曜日。そんで、明日、水曜日は俺も真ちゃんも授業もバイトも入れていない日。一週間に一度だけ、そういう日を作ることにしている。学生バイトって案外土日が忙しいんだよな。真ちゃんは言わずもがな、課題やら研究やらで土日返上もざらにある。一緒に暮らしててもなかなか時間て合わないもんなんだ、って気づいてから、そういう工夫をすることにした。一週間に一日、二人だけの時間を作る。そりゃ時々はだめになることもあるけれど、それでもそれがあるのとないのとじゃ大違いだ。
 そんで、二人ともそう強いわけでもないけれどその休日の前に食事と一緒に飲むビールが、俺はすごく好き。あ、真ちゃんはビール飲めないからチューハイなんだけど。
「そうだな、…ごはんを食べ終わったらもらうのだよ」
「ん。じゃあ俺もそうしよっと」
 ごはんを食べ終わったら、っていうのは、文字通り米粒を食べ終わったらってことだ。おかずは微妙に残しておいて、茶碗だけさげたらアルコールにシフト。ちなみにその時に飲む量によって、大体夜のアレコレも想像出来たり……っていうのは、まぁ、余談だけど。飲まないって言われた時には、色んな意味で覚悟する。あ、真ちゃん相当溜まってんな、これ今日寝れねーな、っていう、な。
「いただきます」
「はいよー、いただきますめしあがれ!」
 綺麗に両手を合わせる真ちゃんの、いただきます、が好きだ。この瞬間のために頑張ってるよね、ほんと。育ちの良さが伺える、丁寧な箸使いで一口。その時に少しだけ、頬が綻ぶ。嬉しい。おいしい? って聞くと、まぁな、って返してくれる。そこはツンじゃねーのな、真ちゃん。最初はちょっとびっくりした。
「それにしても、相変わらず短時間でよくこれだけ作るのだよ」
「へっへー。そこはまぁ、高尾ちゃんにお任せ的な?」
「……お前は本当に器用だな」
「まぁ真ちゃんに比べたら、誰でも大概器用だと思うけどね? 特に料理」
「……うるさいのだよ」
 むすっと拗ねる真ちゃんに笑って、生姜焼きを口に入れる。おぉ、うまい。これはなかなかいけんじゃねーの。そう思いながら、内心でほっと一安心。
 ……実は俺は、あまり料理が得意じゃない。
 というか、得意不得意、という話ではなく。やってみたらそれなりに出来たけれど、最初からこんなに色々できたわけじゃない。だって考えてみてほしい、学生時代のほぼ100%を部活に費やしてきていたのだ。その間、食事はほぼ母親任せ。まじ母親って偉大だよな、仕事して帰って家族分の飯毎日作ってさ。俺、母さんには一生頭上がらないなって、この暮らしを始めてつくづく思った。たまに一人で何とかしなくちゃいけない時には、まぁカップラーメンかコンビニ弁当、ってところだったし。せいぜい作って炒め飯。決してチャーハンなんて言えない、炒め飯。
 そんな俺がなんで今こうして毎日夕飯まで作るに至ったか、っていうと、それはまぁ、要するに人事を尽くしたわけだ。

 高校三年生、春。最後のクラス替え発表で、俺は真ちゃんと別のクラスになった。初めて同じ紙に書かれていない名前を見て、やたら呆然としてしまったのを覚えている。冷静に考えてみれば、当たり前なのに。三年生のクラスは進路別。文系の俺と理系の真ちゃんでは、そもそも一緒になるはずもなかった。
 だけどそんな簡単な事実に、俺はその時までまるで気づかなかったのだ。どうしてだろう、当たり前のように、ずっと一緒にいるものだと思っていた。そんなはずないのに。
 そして現実を突き付けられたその瞬間、俺はもう一つ、あることに気づいてしまった。つまり、この先俺と真ちゃんの人生は、重なることなんてないんだってこと。大学はきっと離れる、全然別の場所に通って、きっと全然別の仕事に就く。つまり緑間真太郎と高尾和成の人生の交差点は、この高校三年間に集約されていたわけだ。三年目にしてようやくそこに気づく自分の鈍さに頭痛を抱えながら、それでもなんとかならないか考えた。
 考えて、考えて―――その結果が、今だ。
 その時点で、俺と真ちゃんはいわゆるそういう関係にはなかった。親友、兼、相棒。時々真ちゃんから感じる視線はもしかして自分のものと同じなのではないかと夢見たこともあったけれど、それを盲目的に信じられるほど俺は子供でもロマンチストでもなかった。だからこそ必死だったのだ。この繋がりを、切ってしまわないように。卒業まで一年もない、その間になんとか引きとめる手段を見つけなければ、俺は完全に真ちゃんと分かれてしまうと思った。
 そんな時に思い出したのが、有難いかな緑間真太郎という人間のバスケ以外における不器用さだ。特に、生活能力。合宿の時の米洗浄事件はトラウマだったけれどあの時ばかりは感謝した。ちょっと前に高校を出たら家を出るつもりだ、と真ちゃんが言っていたのは聞いていて、その時は料理とかできんのかよ、って笑うだけだったんだけど。
 だったら、俺がやればいい。
 料理ができない、家事も得意じゃない、生活能力はすごく低い緑間真太郎にとって、有用な存在になればいい。料理が出来て、家事が得意で、生活能力もそこそこに高ければ。そうすれば。
 仕方ないから面倒見てやるよ、と、そんな名目で、ずっと一緒にいられるんじゃないかと思ったのだ。

 ―――まったく、今思い返すと自分の考えの青さと浅さに埋まりたくなる。
 結果としてうまくルームシェアにこぎつけたその当日、なんとも青天の霹靂というか緑間真太郎の本気を見せられたことにより健全なルームシェアは不健全な同棲となったのでした、回想終了。
真ちゃんのことはだいすきだけど、ほんとに本当に愛しちゃってるけど、正直あの日のことは未だに許してない。俺の苦悩はなんだったんだ、ちくしょう。
 それでも今が幸せだから、まぁ、……それでいいか、なんて思ったりもするのだけど。
「……高尾、何をぼんやりしているのだよ」
「んー? ちょっと考え事」
「考え事?」
「そうそう、お前のことをちょっとね」
 さらっと言ってやれば、真ちゃんは返す言葉がうまく見つけられずに黙りこむ。その困惑した表情はなかなか見られないもので、俺はひひ、と悪戯に笑った。
 得意じゃない料理も、こうしてやっていく内になんとか様になってきた。真ちゃんには散々俺家事得意なんだぜアピールをしてしまった手前、ちょっと失敗したかな、と思うこともないわけではないけれど。それでもこうやって俺がご飯を作って、目の前で大好きな人間がそれを食べて、おいしそうにしてくれてさ。それって何よりの幸せじゃねぇ? やべー、どうしようかな。俺、この幸せ手放せそうにないんだけど。ずっと真ちゃんの側にいて、真ちゃんにご飯作って真ちゃんの面倒見てたいな、とか思ってるんだけど。自分で言うのもなんだけど、俺って結構尽くすタイプだったらしい。いいお嫁さんになると思うんだけど、どうよ、真ちゃん。なんて。
 まだそれを聞く勇気は持てないから、とりあえず今日も明日も明後日も、俺は大好きな彼の為にごはんを作る。だって、ほら。男を捕まえるには胃袋掴めって、昔から言うしな。